2015年12月16日  水曜日   福岡県福岡市西区生の松原  「元寇防塁」     
笠岡    博多    大牟田・西鉄大牟田   下山門    天神      博多   笠岡   
6:58    9:07・9:28    10:37〜14:22    15:44 〜16:41   17:07 〜18:05     18:20〜18:42    20:37   



博多湾の中央に浮かぶ能古島。

















能古島の沖には玄海灘があり、玄海島が見えている。


















砂浜近くの松原に建つ「元寇防塁」の碑。


















生の松原の松。老木は比較的少ない。



























「生の松原海水浴場」、

ここも跡は残らないが防塁が築かれた場所。防塁の石は、福岡城の石垣に使われた。




















「元寇防塁」は名のとおり、

元寇から守るための防塞で石と土塁で出来ている(生の松原では石だけ)。








第一回目の元寇(蒙古襲来)の文永の役が1274年、

第二回目の元寇、弘安の役が1281年、

第三回の元寇、未実現。





元寇防塁は第二回の元寇や三度目の元寇に備えて築かれたもの。



九州北部の長崎県や福岡県に築かれ、

特に博多湾は総延長20kmの防塁で有名。














福岡市内には4ヶ所ほど遺跡が残り、ここ生の松原では当時の高さに復元工事をしている。








現地の説明板。















有名な「蒙古襲来絵詞」。

日本の歴史画像で、これほど価値ある絵はない。













肥後の御家人・竹崎季長が築き、戦をした生の松原。
















高さは2m。敵を待ち受けたり、攻めだしていく。













生の松原元寇防塁遺跡の全貌。














敵は服装も、武具、武器も違い

言葉はわかわず

火薬が爆発する武器を日本人は初めて見た。









しかも数万の大軍。

鎌倉武士は数十人での点在防御。まとめても数千人と予想される。


それでも負けてモンゴル帝国の領土になることはなかった。




夜のゲリラ戦での攻め戦、

敵国軍の士気の低さ、

台風(神風)が来た幸運、により敵は引き返した。




















世界帝国とも呼べるモンゴル帝国を退けた日本は、それから700年後

その”神風”を信じて世界戦争を始めた。






















昭和の日本軍ほど低レベルな軍はない。

その事は、

この防塁を見ればわかる。





700年前の鎌倉武士は敵が来る海岸沿いに防塁を築いた。

昭和の日本軍は、敵が来る海岸に何も築かなかった。(防御は丸裸、人はすきっ腹、武器は竹槍)



















250年前の江戸時代の人は、「たった四はいで夜も眠れず」ほどに状況を認識していた。

100年前の明治軍人はロシアに備え、西日本の各所に要塞を築いた。



今も残る戦争遺跡は、

圧倒的に明治の遺跡で、世界戦争を始めた昭和の遺跡は乏しい。


















戦の遺跡を見ると、いつも思う

昭和の日本軍はどうしてこうまでも低質化したのだろうか?



謎でもあるが、それよりも恥ずかしい。

遠い過去でなく、親の時代の話だ。















つぎ・天神のイルミネーション



2015年12月19日