2015年6月20日   土曜日  13:00頃
笠岡市用之江(もちのえ)


用之江の公民館で1時半から用事があり、その1時間前に来た。


用事の前に地区を少し見ておきたかった。
















児童公園もあり、


















今時だから「防災マップ」もでききていた。

ゴミステーションに大きく標示されている。














公民館での用事は「城見郷土史」に関する会議で、地域ゆかりの本の製作打ち合わせ。

























このお店・スパーは「アメリカ屋」と呼ばれる。





アメリカ屋と呼ばれる訳は、用之江の人がアメリカに渡りお金を稼いで帰国して商店を開いたから。


お店は、えいちゃんが小学生の時にはあった。

おば(父の妹)に聞けば、おばが小学生の時もあった(昭和5〜11年頃)そうだ。


という事は、初代の店主が帰国したのは少なくとも85年前のことだ。

渡米したのは100年前だろうか?いつだろう。

アメリカの何処に渡って、何の仕事をしたのだろう。





























用之江からは大臣が二人、岡山県知事が一人出ている。














県知事当時の県政や、大臣当時に重大事項をどのように対処したのか

その一部分だけでも郷土史に1ページ残したい思いがする。





















用之江に笠岡市の「恵風荘」という施設がある。


その場所は用之江がまだ小田郡城見村当時に隔離病棟があった。

伝染病患者は家から隔離して、その病棟で治療を受けた。それは戦前から戦後まで。





えいちゃんが小学生の頃は役目を終えて空家になっていた。


その「隔離病棟」から「恵風荘」に至る話や、関する話も郷土本に記したい気がする。


















何年間くらいだろうか?

用之江に自動車教習所があった。

日本に自家用車が普及しはじめる頃の話だ。




国道2号線が砂利道から舗装道路になる頃、教習所ができて今思えばおんぼろ車で指導を受けていた。



時代の一コマとしてその話(教習所)も残したい。教習所があった事を知る人も少ないはずだ。













ここは山陽本線「用之江踏切」。





小学生の時、乗った乗合バスの車掌は若い女性だった。

いつもの通り、この踏切前でバスから降りて「ピッピッ!」と笛を吹きながら踏切を渡った。



バスの客、何人から「汽車が来ょうるが!」の大声がでたが車掌は一人踏切を渡ってしまった。

バスは汽車が通り過ぎて渡ったが、その車掌さんのバツの悪そうな(顔でなく)身の表情が忘れられない。


この踏切を渡る度、必ずその事を思い出す。





つぎ・矢掛駅(井原線DE得得市)@A



2015年6月22日