2015年5月21日 木曜日 岡山県高梁市備中町長屋・布賀 黒鳥ダム〜長屋橋 | ||||||||||||||||
田原ダム | 〜 | 田原橋 | ![]() |
全通橋 | ![]() |
阿部山橋 | ![]() |
黒鳥ダム | 〜 | 長屋橋 | ![]() |
志藤橋 | ![]() |
用瀬橋 | ![]() |
夫婦岩 |
9:00頃 | 9:30頃 | 10:00頃 | 10:40頃 | 11:20頃 | 11:40 | 13:20頃 |
黒鳥陣屋門。
黒鳥はかつて集荷地、港町として重要な町だった。
黒鳥は成羽川の谷間の町。
周辺はすべて吉備高原の山々。
山々の農村は年貢米を黒鳥までもってきた。
その米俵は船で
成羽川、高梁川を下り
瀬戸内海を笠岡湊まで運ばれた。(時代と支配者により笠岡と玉島に変化している)
高瀬舟の川湊としても明治末頃まで栄えた。
瀬戸内海と東城間で、東城の鉄を運搬するのが川運の始まりだったようだ。
成羽町史によれば、
江戸初期の角倉了以(すみのくらりょうい)よりもずいぶん早く、鎌倉・室町期に成羽川で「高瀬舟」は運行されていたそうだ。
高梁川の高瀬舟は、
新見方面からの船は備中松山で荷を、より大きな高瀬舟に積み替えていたが
ここ成羽川の高瀬舟は積み替え無で笠岡・玉島、まれに四国まで運搬していたそうだ。船頭さんは船で寝ていた。
(JAと酒造会社の向かいのお宅の大木が無くなっていた。電線に黄色の防護管の場所)
笠岡市の小田川の高瀬舟も明治末頃に消滅しているから、
高梁川水系の物流としての高瀬舟はほぼ同時に姿を消していようだ。
高梁川に限らず、日本中のすべての川に言えるが
橋の数は極めて限られ、川舟や飛石や丸太や板橋で川を越えていた。
黒鳥商店街と対岸を繋ぐ「長屋橋」。
大袈裟に言えば、
近年まで日本中の集落のはんぶんは「陸の孤島」だった。
ここ長屋地区もそんな村だった。
長屋橋から見る成羽川、左手が黒鳥商店街。
長屋地区。
川の流れ。
今日見たすべての山々に言えるが、緑がきれいだった。
もう2〜3週間前はもっと萌えた色だったろうな。
正面が黒鳥商店街、ほぼ中央に富家小学校が見える。
川の左岸には、絶壁を切り取った細い道がつづいている。
この道を上流にある黒鳥ダムまで行く。
しかし「中国自然道」とはいえ、道の右手は崖、左手も崖の怖〜い道だった。
つぎ・成羽川の橋D黒鳥ダム〜長屋橋2
EF
2015年5月24日