2012年9月13日 木曜日 11:12〜12:18
笠岡市生江浜・吉浜・金浦 「生江浜の渡し」の話
東京でオリンピックが開催される昭和39年(1964)の2〜3年前までの日本はといえば
ほぼ農村山村漁村で構成され、陸の離れ島、海の離島であることは普通の状況であった。
(ドンガメの干潟・カブトガニ繁殖地の今、笠岡総合スポーツ公園)
笠岡市の生江浜も「陸の離れ島」と呼ばれ、笠岡に行くためには渡し船に乗って金崎まで行き、そこからバスで行っていた。
(金浦湾が生江浜から笠岡を遠くしていた)
金浦大橋が完成の頃に「渡し」は廃止されたようで、
金浦の人、何人かに「渡し」の事を聞いてみたが、「知っている」「乗ったことがある」止まりで、それ以上の話を聞くことが出来なかった。
(金浦歴史研究会発刊の「金浦探訪」より借用)
謎の「渡し」であったが、偶然詳しく聞ける機会があった。
市内に住むFさんで、昭和19年生まれの生江浜育ち。
渡船の事を尋ねると、お兄さんが渡の船頭さんであったという。
以下はFさんの話。(2012年9月3日)
(写真左端付近が渡し場・・・と思う)
兄貴とは、とう年がはなれとった。
兄貴は百姓をしとった。土方があれば土方もしとった。それで話があり船に乗るようになった。
(金浦大橋)
井笠バスは舗装してない金崎の道を通りょうた。
バスが通る時間はわかっとった。(船頭も客も)
笠岡に行くのには土手からバスに乗った方がいいか、金崎から乗った方がいいか決めてから家を出る。
(当時は陸の孤島、生江浜)
客は学生が多ぃかった。笠岡へ行く学生(ほぼ高校生)の人、
それに通勤の人。(笠岡や更に山陽線に乗る人)
その頃は通勤の人はめったにおらなんだ。(日本はまだ農業国家だった)
学生の方がおいかった。
(西から見る国道2号線・金浦大橋)
(渡船料を)何円もらようたのかおぼえてないけど、高校生は無料か安かった。
生江浜の部落で・・公的に・・・営業しょうたんか、個人で・・・営利で・・営業しょうたんかわからん。
あれだけでは食うていけんので、たぶん部落持ちでしょうたんじゃあないんか思う。
(生江浜から城見隧道方面を見る)
漕いでいも、どうしても2〜3分おくれることがありょうた。
バスは止まって待つてくりょうた。
高校生は商業や工業へ行くのが自転車で乗りょうた。
帰りも船で帰りょうた。(朝船に乗る人は帰りも乗る)
(生江浜干拓の土手道)
船は平座で一艘。漕ぐやつ、エンジンはないやつ。生江浜で繋いどった。
(堤防にあった一本松跡の記念碑)
(朝晩の通勤通学時以外は客は少ない)
笠岡へ買い物に行くゆう人が乗っとった。
(伐採前の一本松、金浦郷土史研究会発刊の「金浦地区石碑・歌碑しらべ」より借用)
金崎にバスから降りた客はこっちに向かって手を振る。そしたら「まちょうてぇ、いくでぇ」ゆう感じで出しょうた。
船に乗る客は生江浜の人だけ。大≠フ人は旧国道のバス停へ行きょうた。
生江浜は陸の孤島言わりょうた。
(干拓堤防から見る土手)
その頃は買い物で笠岡へ行くゆうことも滅多になかった。金浦で用が足りょうた。
金浦商店街まで行けば洋服屋もあり店もあり病院もあり、なんでも足りょうた。
千歳橋からガードまで店がずーーーと並んどった。
(生江浜橋)
船は生江浜で待っといて客がきたら出す。船に乗る人はバスに乗るために船に乗る。
もう来そうにないゆう時は一人でも客が来たら出す。
(万世橋)
船は前部分が平座、ぐるりに板の腰掛を付け、客同士は向きあうようになっていて、真ん中は空いとる。
そこが自転車の部分。
(吉浜の土手)
ある時は船に乗った高校生がちばけて、ゆすって、沈没したことがある。
その時は満潮でなかった、干潟じゃった。それで(人的な)事故にゃあならなんだ。
(八千代橋と祀られたお清さんと白馬)
2012年9月15日