2012年4月4日   水曜日
高知県香南市夜須町手結山住吉漁港  「震洋隊殉国慰霊塔」

笠岡発    桂浜    横波黒潮ライン    特攻・震洋    安芸野良時計    奈半利    吉良川    室戸半島    宿 
6:30    10:00頃    11:30頃    13:30頃    14:30頃    15:30頃     16:20頃   17:00頃    17:40 



鹿児島県の薩摩半島のまんなかに「知覧」という町がある。


その町は「紅茶栽培」と「武家屋敷」で少し知られた町だった。



今は戦争末期の”特攻の町”として、記念館も出き、大型バスもくる観光定番地になっている。


観光客は、記念館に展示してある特攻兵の手紙を見て

【国を守る純粋な気持ち】に感激して、町を去っていくようだ。



そこまではいい。

だけど、感激だけで終わるのは非常に危険なものを感じる。



特に思うのが、

なぜ特攻に志願したのか? (国の教育)

なぜ・・・当初はあったが・・・戦果の見込みもない特攻を繰り返したのか? (軍の体質いうか組織)





ここに「震洋」という特攻兵器がある。










震洋は、とても「鯨」とは呼べない全長5〜6mの程の小型ボート。













大戦末期には本土決戦に備え4000隻が実戦配備されていたそうだ。









木製のモーターボートに250kgの炸薬を積み込み、

本土に上陸する海兵隊の艇に体当たり攻撃。



米軍の上陸が予想される海岸に配備されていた。








ここ夜須町の住吉海岸は「四国の湘南」とも呼ばれるきれいな海辺。








その海辺に昭和20年、140人の海軍兵が米軍に備えていた。












終戦の翌日、昭和20年8月16日

震洋の1隻が燃え爆発し、他の震洋も爆発していった。





140人のうち、111人が肉片となり散った。







旧海軍の震洋特攻兵は、ほぼ予科練生と、元予科練生

年齢でいえば16〜18才程度の若い特攻兵であったと推測される。









戦果が目的のはずが、

死ぬことが目的になっていった戦争末期の特攻兵。



生きて終戦を向かえたが、その翌日に事故死とは痛ましい。








港で網の手入れをする漁師さんに、

「当時の跡は何か残っているのでしょうか?」と尋ねた。





漁師さんは手を休め、

「神社の石段のところに穴を掘りボートを隠していた。

その穴が近年まで残っていたが、崩れてしまった。

その場所に遺族の方が檜を植えて弔っている」と・・・・相当な土佐訛りで・・・話してくれた。


その話しぶりも、なにか兵にたいして可哀そうな口ぶりだった。








これが港近くの神社。


ここで年若い特攻兵士は海を眺め、敵を待ち、決意を強めていたに違いない。








特攻兵器・震洋の跡地に植えられた檜。







帝国海軍には船での特攻兵器が二つあった。




人間魚雷・回天は、いちおう鉄でできた潜水艦。

航空機ほどではないが、悲劇は今でも語られる。





人間ボート・震洋は、木製の水上ボート。

絵空事の特攻兵器は語る人さえいない。




つぎ・安芸野良時計@NEXTA


2012年4月8日