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源頼朝 場所・神奈川県鎌倉市扇ガ谷 源氏山公園 鎌倉 武士の作った政治の町鎌倉は、ここに150年間もの間、日本の政治の中心があったとは思えぬほど狭く小さな場所である。 三方を山々が取り囲み、一方が海に開ける鎌倉の地形は、そのまま自然の作った防御陣地を形づくっている。 頼朝が入ったころの鎌倉は、まだ人家もまばらな寒村に過ぎなかった。 三方を山に囲まれているため、外部と鎌倉をつなぐには、山を切り開き、道をつくらねばならなかった。 今も残る「切り通し」がそれである。 源頼朝 (永井路子) ここに本拠をもうけたことによって、頼朝と、この近くの武士団との間に、たいへん密接なつながりができます。 このために、鎌倉氏の子孫である三浦氏とか、梶原氏とかが頼朝に密着し、その御家人として立ち上がる。 こうして、北条氏を姻戚としながら、一方歴代の有力御家人である三浦氏の本拠の近くである鎌倉に移ったということによって、 非常に微妙な勢力関係の上に立つ形で、頼朝の政権は出発したわけですね。 「日本史探訪7」 角川書店編 角川文庫 昭和59年発行 源頼朝 (村上元三) 義経のいき方というのは、大軍を率いて真っ先に進むというよりも 少人数で、突入する戦法ですね。自分も真っ先に敵の中へ進んでいく。 天才的な戦略家・軍人ですよ。 頼朝は、やはり政治家ですよ。 義経をじゅうぶん利用して天下をとったわけですよ。 ところが、平家を破ったあと、今度は義経がじゃまになるわけですね。 ぼくは、頼朝が武家政治の始まりとか言いますが、 武家政治の始まりというのは清盛の方を買いますね。 福原に港を開いて宋と貿易するとか、 スケールが大きいし、独創性があります。 頼朝が偉かったのは、 情におぼれなかった。 家来に対しても、お公家さんに対しても、それだけ冷たいところもあったのでしょう。 お公家さんたちが、つけいるすきのない人間。 「日本史探訪6」角川書店編 角川文庫 昭和59年発行 撮影日・2011年9月8日 |
鎌倉大仏 場所・鎌倉市 高徳院 作者不詳 鎌倉中期 (じゃらんニュース) 鎌倉大仏の歴史と概要 高徳院の本尊、鎌倉大仏 高徳院(詳名: 大異山高徳院清浄泉寺)は、法然上人を開祖とする浄土宗の仏教寺院です。高徳院の本尊「鎌倉大仏」(詳名:阿弥陀如来坐像)の建立が開始されたのは、1252年頃のことと言われています。 完成当初は金箔に包まれ、堂宇(大仏殿)の中に収められていましたが、強風や大地震によって倒壊、現在のような「露坐」の姿の大仏となりました。 創建当初、堂宇は60基の礎石に支えられていたようですが、現在はそのうちの56基が残り、境内に点在。庭石や水盤に転用されているものもあります。 露坐となって荒廃が進んだ時期もありましたが、江戸中期、祐天という高僧によって復興が行われました。創建から750年以上経った今も、大仏像そのものとしては、当時のままの美しい姿を見ることができます。 アクセス: 電車で行く場合は江ノ島電鉄「長谷駅」より徒歩7分。 拝観料: 高徳院(鎌倉大仏)の拝観料は大人・中高校生300円。 撮影日・2011年9月8日 |
二宮尊徳像 場所・神奈川県小田原市城内 報徳二宮神社 二宮金次郎さんの像は、笠岡市内に限っただけでも20数体あるが 二宮尊徳さんの像となれば、探しても・・・無いだろう。 金次郎さんの像は戦前、すべての小学校にあり、 尊徳さんは実際に活動した、神奈川県や北関東に像や碑が建っているのだろう。 碑文を転記する。 二宮尊徳翁(1787〜1856) 江戸時代後期の農政家・思想家。 通称金次郎。尊徳は武士の名乗り。 幼少期の逸話が一般に知られているが、後に 「報徳仕法」と呼ばれる独自の方法と理念で、 小田原藩や日光神領などを含む、多くの諸家 所領の復興に尽くした。直接・間接的に指導 した農村は六百余りにものぼる。 ついでに金次郎さん。 二宮金次郎像 これと同じ像は全国約一千体制作されたが戦時中 すべて供出に遭い 現在残っているのは この一体だけである 尊徳さんは酒匂川近くに生まれ、後年には神となり 小田原城中に「報徳神社」に祀られている。 撮影日・2015.7.8 |
xxxx像 場所・神奈川県xx市xx町 撮影日・xx年xx月xx日 |
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作成・2021年10月8日 追記・2021年10月15日