銅像の人  東京都
 
楠木正成騎馬像

場所・東京都千代田区皇居外苑


高校の修学旅行で初めて東京に行った。
二重橋前で記念写真を撮ったのは覚えている.


楠木正成騎馬像

皇居を守る忠義の士
建立・1900年(明治33年)

後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕に参加した武士。
湊川の戦いで足利尊氏に敗れ果てた。
明治以降は「大楠公」と呼ばれ、忠臣の鏡とされた。
勇ましい姿のこの騎馬像は、別子銅山を開いた住友家が開抗200年記念で企画し、
宮内庁へ献納した。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行





「広瀬中佐の銅像」 もりたなるお著 新人物往来社 2002年発行

紀元は二千六百年

宮彦は去年の春に東京府立青梅農林学校を卒業して、平井尋常高等学校に代用教員として勤めた。
代用教員一年目の宮彦は担任の学級はなかった。
六年生が卒業を控えての修学旅行が2月10日と決定し、宮彦は付き添いをするのである。

「東京へ着いたらいちばん先にいくのはやっぱり宮城の二重橋なのかね」
「二重橋で宮城を遥拝することは修学旅行の原則になっているそうです。
宮城遥拝のあとは宮城前にある楠木正成の銅像を見ます」
「それからどこを回るの」
「万世橋の広瀬中佐の銅像です。
広瀬中佐の銅像の次は上野にいって西郷隆盛の銅像を見ます」
「銅像めぐりだね。西郷さんの銅像の次は誰の銅像を見るんだね」
「西郷隆盛の銅像の近くで弁当を食べて、それから動物園にいきます。
動物園を見て回ったら、帰ることになっています」

朝食を食べ終えたらラジオが”紀元二千六百年”の歌を放送した。
?金鵄(きんし)輝く 日本の
栄ある光 身にうけて
いまこそ祝へ この朝(あした) 紀元は二千六百年
ああ一億の 胸はなる
?歓喜あふるる この土を
しつかと我等 ふみしめて
はるかに仰ぐ 大御言(おおみこと) 紀元は二千六百年
ああ肇国(ちょうこく)の 雲青し

宮彦は持ちものをもう一度点検して外へ出た。
農林学校の時の制服で戦闘帽を被った。
ゲートル巻に編み上げ靴という足ごしらえである。
外はまだ暗い。









楠木正成騎馬像

皇居を守る忠義の士
建立・1900年(明治33年)

後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕に参加した武士。
湊川の戦いで足利尊氏に敗れ果てた。
明治以降は「大楠公」と呼ばれ、忠臣の鏡とされた。
勇ましい姿のこの騎馬像は、別子銅山を開いた住友家が開抗200年記念で企画し、
宮内庁へ献納した。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行




上の写真2枚に写る人たちは、中国語の人が半数以上だった。



撮影日・2018年3月9日


 


寅さん 


場所・東京都葛飾区  柴又駅前
吉田穂積  1999年






(Wikipedia)

柴又駅前にたつ「フーテンの寅」こと車寅次郎の銅像

『男はつらいよ』(おとこはつらいよ)は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)のテレビドラマおよび映画シリーズである。主人公の愛称から「寅さん」(とらさん)シリーズとも称される。

テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷の柴又に戻ってきては、何かと大騒動を起こす人情喜劇で、毎回旅先で出会った「マドンナ」に惚れつつも失恋するか身を引くかして、成就しない。寅次郎の恋愛模様を日本各地の美しい風景を背景に描く。










撮影日・2018年8月7日

 
 

北島三郎 


場所・東京都八王子市   高尾山駅



「昭和の歌手100列伝」 塩沢実信 ブレーン社  平成26年発行

北島三郎


昭和29年、18歳で高校を中退し歌手を夢見て北海道から上京。
渋谷界隈を流して抜群の歌唱力で評判になる。
昭和37年6月、コロンビアから「ブンガチャ節」でデビューしたものの、猥歌の廉で発禁になった。

初ヒットになったのは、星野・船村コンビの「なみだ船」である。
第4回レコード大賞新人賞を受賞した。


通算50回のNHK紅白歌合戦の曲目は、時系列で
ギター仁義・ソーラン仁義・帰ろかな・函館の女・博多の女・薩摩の女・加賀の女・誠・北海太鼓・
冬の宿・寒流れ・残雪・歩・終着駅は始発駅・与作・風雪流れ旅・まつり・十九のまつり・年輪・
夜汽車・山・北の大地・谷・根っこ・峠・北の漁場。





登山者数が世界一多い山として知られる、高尾山。

その清滝駅の構内に北島サブちゃんの胸像がある。
『八王子観光大使』と横に標示してある。


サブちゃんは好きだったな。
最初「ブンガチャ節」という変わった歌をうたっていた。
しかし、その曲は放送されなくなった。
放送禁止になった、といううわさだった。

次の曲は正統な曲で「なみだ船」。いい歌だった。

それから15年ほど後の事、
岡山市民会館で「北島三郎歌謡ショー」があり、見に行った。
その頃、サブちゃんはいちばん元気のいい時で
曲と曲の間の話で「聴かせてやってるんだから」と言った。
その瞬間にサブちゃんのファンを止めた。




撮影日・2018年3月7日

 
 


忠犬ハチ公 


場所・東京都渋谷区  渋谷駅前(ハチ公口)
制作・初代安藤照 再建安藤士(照の子)


忠犬ハチ公像は、昭和9年完成。渋谷駅前に設置。
忠犬ハチは、昭和10年死去。
忠犬ハチ公像は、昭和19年出陣式(金属類供出)
忠犬ハチ公像は、昭和23年再建
忠犬ハチ公像は、平成元年渋谷駅開発により移動、台座変更







戦犯美術

渋谷といえば駅前のハチ公が有名だ。
ハチ公銅像は忠犬ハチ公ともいったのを覚えている。
「忠義の犬ということだと・・・」
ふと考えた。
戦犯銅像は忠義の士が指定されるという。
そうなると忠犬はどうゆうことになるのか。

忠犬として称えられたハチ公は、戦争中の金属不足のために溶かされて兵器にされてしまった。
忠臣楠木正成や忠勇義烈の広瀬中佐像は供出を免れたが、同じ忠義でもハチ公は飼い主に忠義だったから残されなかったのか。

「広瀬中佐の銅像」  もりたなるお   新人物往来社  2002年発行








ハチ公の話は戦前アメリカにも紹介されていたので、銅像再建にGHQの許可も特に必要なかった。
しかし、呼称について「忠犬ハチ」でなく「ハチ」にという意見もあったようだ。



撮影日・2011年9月9日


 
 

大村益次郎


場所・東京都千代田区九段北 靖国神社
建立・1893年(明治26年)

制作・大熊氏広
設置・明治26年(1893)


大村益次郎

文政2年(1819)〜明治2年(1869)
周防の生まれ。
緒方洪庵の適塾で洋学を学び、兵書の翻訳や軍艦製造に従事。
元治2年(1865)萩藩の軍制改革のリーダーとなる。
戊辰戦争では全作戦を指揮、上野の彰義隊を一日で討伐した。
明治新政府では軍事の全権を掌握。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行








「広瀬中佐の銅像」  もりたなるお   新人物往来社  2002年発行


戦犯美術

昭和31年7月に、経済企画庁は”もはや戦後ではない”と結語に記した。

新聞記者奈川は、戦犯銅像の取材を担当することになった。


「銅像にまで戦争犯罪が及ぶのですねかね」
「戦争意識を煽ったもののようです」

調査部の部屋に、戦犯銅像の資料があるか聞いた。
切り抜きのスクラップ帖があった。
昭和22年2月30日の日付スタンプあった。
大村益次郎のカット写真がついた記事だった。
”「軍服銅像」いよいよ追放--残るか「大村益次郎」”
という見出しがついている。


「かつての超国家主義や軍国主義を国民にふきこんだ銅像や記念碑、忠魂碑などの撤去の基準を決める

『忠霊塔、忠魂碑等の撤去審査委員会』は、2月28日顔ぶれを決定。
3月早々に審査に取り掛かるが、各所の忠魂碑など既に取りはずしがはじまったものもある。
都内の銅像、記念碑等は戦時中200余とおしえられ、そのうち軍服姿のいかめしいのが4、50、
それらはただ侵略主義、軍国主義の宣伝に一役買っただけで美術的に価値はないものが多い。

芸術的価値のあるものは、戦時中に軍需物資として供出し、溶鉱炉に投げ込まれてしまった。
残っているのは軍事色の強いものばかりであった。
ほとんどが追放されるものと考えられる。
さて、それらの銅像であるが、
皇居前の”楠木正成”、靖国神社の”大村益次郎”、須田町の”広瀬中佐、杉野兵曹長”をはじめてとして云々」






大村益次郎

攘夷派に襲われて46歳でこの世を去った。
大村は、靖国神社の前身東京招魂社の設置に強く関わっていたことから、
大村の教え子らによって銅像建立が計画された。
工部美術学校出身の彫刻家大熊氏廣が制作を依頼され、
大熊自ら指揮を執って東京砲兵工廠で鋳造されたものである。

銅像の高さは3m、台座は13mもある。
実在の人物では最も古い像である。

本像は、日本人の手になる本格的な西洋彫刻の劈頭を飾る、
文字通り記念碑的な作品として美術史的に大きな意義を持っている。
しかも、
当時公園的な性格が強かった靖国神社外苑という設置場所から見ても、
本格的近代銅像として成功した最初期の作例ということができる。


「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行




大村益次郎と細菌学

明治2年9月4日、京都木屋町の旅館で、兵部大輔・大村益次郎は刺客に襲われた。
大村は刀をとるひまもなく眉間と左の指の関節を斬られ、右膝をざくりとやられた。
危うく難を逃れた大村は、湯殿に入って流れる血を洗い、
自分の専門である医師としての応急処置を施し、刺客が去ってから無事な姿を見せた。

大村は二か月後にその傷がもとで死んだが、負血症に罹った原因は垢に汚れた湯に漬かっていたためのような気がしてならない。
コッホが破傷風菌を発見したのはそれから9年後。
大村にさえまだ細菌学の知識はなかったわけである。

「歴史と人生と」 綱淵謙錠  中公文庫  昭和55年発行





撮影日・2011年9月9日


 











作成・2021年10月8日  追記・2021年10月19日