銅像の人  東京都
 

西郷さん(西郷隆盛) 

場所・東京都台東区  上野公園
高村光雲 1897年





戦時中の、金属類供出で溶かされるのをまぬがれた銅像は、
戦後になると、戦犯扱いの人物像があった。
上野の西郷さんも危機一髪だったようだ。


戦犯美術


「そうすると上野の西郷さんは」
「西郷隆盛は日本最初の陸軍大将ですからね、当然リストアップされました。
しかし着流しで犬を連れて散歩をしている像です。
復権はしましたが賊軍の大将という汚名を着せられた経緯があるので、最終的には外しましたね」

「広瀬中佐の銅像」  もりたなるお   新人物往来社  2002年発行




王政復古や戊辰戦争を主導し、
江戸城無血開城を果たした革命家。
銅像は明治を代表する彫刻家の高村光雲作。
西郷には写真が残っておらず、弟の西郷従道を参考にした。
頭が大きいのは、下から見上げた時にバランスよく見せるためである。
また、当初は騎馬像の予定だったが、予算不足で浴衣姿に変更され、
西郷夫人は「夫は浴衣で散歩なんかしなかった」と漏らしたという。

「日本の銅像完全名鑑」







上野公園の西郷像は明治31年に除幕されている。
帝国憲法発布(明治22年)の特赦によって西郷の賊名が除かれ正三位が追贈されたのを記念して建設に着手し、9年後に完成したのだ。
除幕式にはまだ存命中だった西郷の未亡人が招かれていて、
「あの人はこんな人ではなかった」と言ったことが有名だ。
行儀のいい人だったから、人前に立つのにこんな着流しの姿でくるような人ではない、
と言いたかったそうだ。

「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行







西郷隆盛

王政復古や戊辰戦争を主導し、
江戸城無血開城を果たした革命家。
銅像は明治を代表する彫刻家の高村光雲作。
西郷には写真が残っておらず、弟の西郷従道を参考にした。
頭が大きいのは、下から見上げた時にバランスよく見せるためである。
また、当初は騎馬像の予定だったが、予算不足で浴衣姿に変更され、
西郷夫人は「夫は浴衣で散歩なんかしなかった」と漏らしたという。

「日本の銅像完全名鑑」






西南戦争

談・西郷吉之助

参議院議員・自民党・鹿児島県選出・貴族院議員を経て当選4回
西郷隆盛の孫


じいさんは32.、33歳から38歳まで3回も奄美大島に島流しになって、
3回目の島流しがすんで、ちょうど38歳の時に、ばあさんと結婚したわけです。
西南戦争時、父は12歳で従軍はできず、磯で最後の別れをしたわけです。

じいさんは29貫もあり、相撲並みです。

上野の銅像は、
ばあさんの妻の立場では、ああいうぞんざいな姿は・・・いやがった。
普段は非常にきちんとした人だったということを、よく私たちに聞かせましたよ。
しかしいまから言えば、上野の方が大衆的ですね。

「歴史よもやま話」 池島新平 文春文庫  1982年発行









撮影日・2018年8月5日


 


松尾芭蕉像 



場所・東京都xx市xx町

















撮影日・xx年xx月xx日

 
 


小松宮彰仁親王  


場所・東京都台東区  上野恩賜公園
大熊氏廣 1912年


元帥陸軍大将大勲位功二級小松宮彰仁親王殿下

小松宮彰仁親王は、明治時代の日本陸軍の中枢を担いました。
称号を何度も変えていることもあり、小松宮の名はあまり広く知られていません。
小松宮は、伏見宮の第八王子に生まれます。
仁孝天皇の猶子(養子)となり、仁和寺に入寺して親王宣下を蒙り「純仁法親王」を号します。
安政五年(一八五八)九月に仁和寺第三十世門跡に就任します。

当時、皇室や宮家の跡継ぎ以外の皇子や王子の多くは寺に入る風習がありました。
仁和寺は皇族が入る寺(門跡寺院)の筆頭格でした。

幕末の慶応三年(一八六七)十二月九日、王政復古の大号令に伴い、
明治天皇から還俗を命じられ、「嘉彰」と称し、新政府の閣僚である議定に任ぜられます。
二十二歳の若さでした。

明治維新の行方に大きな影響を与えた鳥羽伏見の戦いの日
仁和寺宮は天皇から征討大将軍・軍事総裁に任命され、錦の御旗と節刀を授けられ、東寺に陣を敷き、大阪に進軍しました。

明治三年 「東伏見宮」と改称されます。
その後明治十五年に称号を「小松宮」、名を「彰仁」に改めています。
明治時代には長く陸軍で活躍され、近衛師団長や兼議定官に任ぜられ、日清戦争の時は参謀総長・征清大総督として出征し、後に元帥府に列せられます。 

明治十年には博愛社創設に力を尽くし初代総長となります。
明治二十年に日本赤十字社に改められると初代総裁となり赤十字社の発展に尽くしました。
上野動物園入口ゲートへ行く途中左手に、騎乗した小松宮の銅像があります。
赤十字社に貢献したことにより建立されたものです。


小松宮は明治三十六(一九〇三)年二月、五十八歳で薨去され、国葬とされました。

(三島市郷土資料館)













第二次大戦の敗戦まで、大日本帝国の陸海軍は皇族を将官にして、軍をより神格化、絶対的なものとしていた。
それは終戦後の、東久邇宮稔彦王(陸軍大将)首相まで続いた。

赤十字社は人道支援団体でスイス人実業家アンリ・デュナンの提唱により創立されたが、日本赤十字社は皇族と軍との関係が強いのが特色だった。
軍との関係は戦後解消されたが、皇室との関係は今も強い。



小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)は、
戊辰戦争、西南戦争で指揮を執った陸軍大将。
その後、日本赤十字社の総裁を務めた、
典型的な「戦前の皇族」の人といえる。







撮影日・2015年7月9日




 
 


瓜生岩子像 


場所・東京都台東区浅草  浅草寺



瓜生岩子は福島県喜多方市の生まれ、明治時代に孤児や貧民の救済事業に半生を捧げた。







会津のナイチンゲール瓜生岩子

「歴史と旅」 昭和55年2月号 秋田書店 秋月しのぶ作

ナイチンゲールその人が、クリミア戦争の傷病兵の看病に挺身していた頃、
岩子は会津の城下町で呉服商を営む幸福な若妻だった。

慶応4年正月、鳥羽伏見の戦い。
8月に新政府は会津攻撃にとりかかった。
戦場と化した市中では、弾丸の中泣きながら逃げる子、
瀕死の重傷を負い血だらけで倒れている傷兵を目にした時、岩子は内部から吹き上げてくるヒューマティックな気持ちにつき動かされるように、
生き残った婦女子を励まして、負傷者の看護をするのだった。
戦争は、子供たちの両親を奪い、今また飢餓が、武士の子の矜持や、知性さえ奪おうとしている。
岩子は一人一人を抱きしめた。


岩子は東京に出て、貧に苦しむ人々を救う経営の勉強をしたいと思った。
半年後の明治20年、岩子は12人の弟子たちを連れて県庁のある福島に住んだ。
翌年7月、磐梯山が大噴火した。
救護にかけつけた。
産婆看護婦の養成所を開いた。息子の清作を連れた野口英世の母もいた。

明治24年、岩子の活躍が上聞に達し、宮中にお召しがあった。
着物一枚買う金があれば、7人の子供が養えるという岩子は、着たまま雀の木綿の普段着一枚しかないので、その普段着のまま参内する。
明治30年、心臓病で倒れた。
貧しい人たちの友、
孤児の母として、
その後半生を捧げ尽し、力の限り生き抜いた岩子は眠るがごとく永眠した。
享年69才。











撮影日・2011年9月7日




 
 













作成・2021年10月8日   追記・2021年10月19日