銅像の人  鹿児島県
 

西郷隆盛像 

場所・鹿児島県鹿児島市  鹿児島市立美術館前
安藤照 1937年




銅像の西郷は、いかめしい軍服姿で堂々と立ち、
右手を軽く折って腰にそえている。
頭が大きく、体つきも貫禄十分だ。
この姿は、明治6年、初代陸軍元帥として習志野で行われた大演習を指揮した時の姿を表現したものであるそうだ。
昭和2年、南洲没後50年記念事業として企画され、10年後の昭和12年に除幕されたという銅像だ。
城山の西郷像は堂々たる正装である。
一段高いところに立って、鹿児島の街を見守っているかのようでもある。
たとえ一時的には賊の汚名をきせられたのだとしても、
鹿児島の偉人と言えば西郷隆盛なのだ。
鹿児島の人が誰よりも西郷を尊敬しているという、
その気分がひしひしと伝わってくるような銅像だった。

「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行








「氷川清話」  勝海舟 角川文庫  昭和47年発行


西郷南洲

おれは、今までに恐ろしいものを二人みた。
それは横井小楠と西郷南洲だ。

西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれの方がまさるほどだったけれども、
いわゆる天下の大事を負担するものは、はたして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。


西郷隆盛の人物
おれが初めて西郷に会ったのは、兵庫開港延期の談判委員を仰せつけられたために、京都に入る途中に,大坂の旅館で会った。
なかなか立派な風采だったよ。


〇坂本龍馬がかつて、おれに「先生はしばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者もいっそ会ってくるにより添え書きをくれ」といったから、さっそく書いてやった。
その後、坂本が薩摩から帰ってきていうには、
「なるほど西郷というやつは、少したたけば少し響き、大きくたたけば大きく響く。
もしばかなら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう」といったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。
西郷におよぶことのできないのは、その大胆識と大誠意にあるのだ。
おれの一言を信じて、たった一人で、江戸城に乗り込む。


官軍が江戸城にはいってから、市中の取り締まりがはなはだめんどうになってきた。
幕府はたおれたが、新政府はまだしかれない。無政府になっていた。
しかるに西郷は意外にも、実に意外にも
「どうかよろしくお頼み申します。後の処置は、勝さんがなんとかなさるだろう」と言って、江戸を去ってしまった。
常人と違って、よほど大きくできていたのだ。









撮影日・2013年8月8日

 


西郷隆盛 


場所・鹿児島県鹿児島市城山町 西郷洞窟  



西郷軍は熊本まで攻めのぼるが、熊本城は落とせず、
九州を大行軍して鹿児島に帰り着く。
9月に入り、西郷は城山の狭い洞窟の中にいた。

9月24日、官軍が総攻撃を始める。
西郷は洞窟を出て、最前線に出ようと歩いていくが、途中で腹に官軍の弾丸が当たる。
西郷はかたわらの別府晋介にむかって、

「晋どん、晋どん、もうここでよかろ」
と言ってすわった。
晋介がその西郷の首を介錯した。

「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行







「西南戦争」

西郷隆盛率兵進発 明治10年2月15日(1877年)
西郷隆盛ら自刃   同年 9月24日

西南戦争の誘因は、征韓論に敗れて下野した西郷隆盛が、東京を去って鹿児島に隠退したことからはじまる。
鹿児島の軍事訓練校でもある私学校の生徒が西郷の不遇に憤慨し、武力蜂起を実行にうつそうとした。
それを阻止していた西郷も遂に力およばず,止むなくこれを指揮して東上の兵を起こしたのである。

こういえば簡単だが、その内情はけっして単純ではない。

幕藩体制の崩壊と新政府政策の矛盾のあらわれ、廃藩置県に付随した徴兵制度による全国武士階級の没落、
政府の財政窮乏からくるインフレ、地租改正による農民の不安と秩禄喪失による士族の生活難、木戸と西郷の対立、
派閥的には長州と薩州の反目が内在している。

西郷はブルドーザーのごとく旧制度を破壊したが、緻密に鉄筋を組み立てていく建築家ではなかった。
武人は敵の破壊が任務であって建設者ではない。
西郷は根っからの武人だった。

幕府を兵力で倒した西郷が、その後に見たものは新政府による廃刀令、徴兵制、地租改正などの他、
士族の失業に与えるに長期年賦の秩禄公債と気にいらぬ改革ばかりだった。
鉄道敷設に金を使うよりも兵力の充実に回すべきだと彼は不平満々だった。
二百万の士族の困窮を、新政府が見殺しにしているのも不満にたえなかった。

・・・

9月24日午前4時、号砲3発、その響きは殷々として城山を震わせた。
雲霞の如き官軍は、こうして四方より城山に総攻撃をかけたのである。
別府晋助と逸見十郎太は西郷の左右に従がっていたが形勢は急なり、
「もう、ゆはごはんすめいか}
「まだまだ」
また行くこと一町余り。
四方から集中した弾丸は驟雨のごとくである。
逸見はまた問うたが「まだまだ」と西郷は言った。

流れ弾丸が西郷の股と腹を貫通した。
西郷は別府をかえりみて、
「晋どん、晋どん。もう、ここでよか」と云い、地に座った。
別府晋助は西郷に向かい、
「ごめんなったもんし」と、
刀を持って西郷の首に打ち下した。
隆盛、51歳であった。

この日、戦闘は午後4時をもって始まり、同9時に終わった。
西郷の首は一兵卒が発見し、これを清水で洗って浄めた。
山県の回想に曰く。
「このとき余は西郷の首実検をし、一面には征伐の任務を全うしたことを喜んだが、
他の一面には、一代の傑出したる英雄がかくのごとき運命に遭遇したかと思い、
覚えず厳然として涙下り、哀情が耐えられなかった」(公爵山県有朋伝)

西郷としては、せめて故郷の鹿児島に戻って死んだのが本望だったろう。


「私説・日本合戦譚」 松本清張  文春文庫 1977年発行








撮影日・2013年8月8日


 


島津忠義公 銅像 


場所・鹿児島県鹿児島市照国町


【よかガイドかごしま】

島津忠義公 銅像
島津斉彬公の遺言により薩摩藩の第12代藩主となる。日本初の紡績工場を造るなど、集成館事業を充実。明治維新後は進んで版籍奉還を行い、鹿児島藩の知事を経て貴族院議員となった。








撮影日・2013年8月8日

 


坂本龍馬とお龍 


場所・鹿児島県鹿児島市天文館



龍馬は傷の手当てのためお龍と、霧島温泉と日当山温泉に湯治に来たが、
これが日本人初の新婚旅行と、いつからか言われるようになった。





「英傑の日本史」 井沢元彦  角川学芸出版 平成22年発行


新婚旅行で高千穂山へ

薩長同盟を成立させるという大仕事を成し遂げた龍馬は、
傷の療養も兼ねて、お涼と共に汽船で薩摩に向かった。

これが日本最初の新婚旅行と言われるものだ。
しばらく鹿児島に滞在した後、霧島方面の温泉に向かった。

この慶応2年3月は、龍馬のあわただしい人生の中で最ものんびり暮らせた時期だった。
(この時から1年半後に暗殺された)
お涼は、神話で有名な高千穂山に登りたいと言い出した。
ちょうどキリシマツツジが満開で見ごろだった。

人生最良の日々を過ごした龍馬夫婦は鹿児島へ戻った。
下界は風雲急を告げていた。







撮影日・2013年8月8日


 
 



七高生久遠の像

場所・鹿児島県鹿児島市  鶴丸城跡







撮影日・2013年8月8日












作成・2021年10月7日   追記・2021年10月20日