銅像の人  群馬県
 


中島知久平像 


場所・群馬県太田市  金山城跡



日本100名城の「金山城」に登城したら、城跡からスバルの工場や北関東の平野や市街地が見渡せた。
そこに銅像が建っていた。
中島飛行機(戦後・スバル)の創業者中島知久平の像だった。








群馬県太田市のHPより

飛行機王中島知久平




知久平は、尾島町押切の農家の長男として明治17年(1884)に生まれ、
18歳の時に軍人を志して上京し、海軍機関学校を卒業、海軍の軍人となり、大正6年(1917)3月に退官した時は機関大尉でした。
海軍時代の知久平は、軍人としての職責を全うする傍ら、アメリカ・フランスで航空機産業の視察・研究を重ね、折からの大戦で大艦巨砲主義を排し、飛行機の重要性を説くようになり、
「飛行機を大空に飛ばす」という自身の夢を現実化することになりました。

知久平は、大正6年5月、海軍を待命のまま尾島町前小屋の養蚕農家の借家に「飛行機研究所」の看板を掲げ、
退役が決定した同年12月に、太田町の大光院東の洋館に研究所を移転し、本格的に飛行機の研究・製造を開始しました。
当初は、なかなか飛ぶ飛行機の製造は叶わず、大変苦労しましたが、大正8年2月、四型6号機を完成させました。
飛ぶ飛行機の完成です。以後、陸・海軍からの大量受注により、中島飛行機は飛躍・発展を遂げ、その生産量・技術とも日本の航空機生産業界の頂点に立ち、
太田は「飛行機の町」として広く知られるようになりました。


また、知久平は昭和5年(1930)以降衆議院議員として連続5回当選し、
昭和6年に犬養内閣の商工政務次官に、同12年には近衛内閣の鉄道大臣に、同20年に東久邇内閣の軍需大臣(後の商工大臣)を歴任するなど、
中央政界において、その実力をいかんなく発揮しました。

昭和24年(1949)10月、東久邇内閣での同僚である松村謙三と談笑中、病を得て倒れ、65歳の生涯を閉じました。












撮影日・2017年9月28日

 
 


xxxx 像

場所・群馬県xx市xx町













撮影日・xx年xx月xx日




 
 



xxxx 像

場所・群馬県xx市xx町












撮影日・xx年xx月xx日





 
 













作成・2021年10月8日   追記・2021年10月19日