銅像の人  大分県
 

滝廉太郎 

場所・大分県竹田市  岡城跡
朝倉文夫 1950年



滝廉太郎

明治12年(1879)〜明治36年(1903)
東京生まれ。
ピアノ・作曲をケーベルに学び、「四季」「荒城の月」「箱根八里」などを作曲。
明治34年ドイツに留学したが病気となり、帰国後死亡。
西洋音楽と日本音楽の叙情性を巧みに調和させ、後世に大きな影響を与えた。

像の作者朝倉文夫は竹田高等小学校の同窓生。
「荒城の月」の楽想はこの岡城跡で得たといわれる。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行






「童謡 唱歌の故郷を歩く」 井筒清次 河出書房新社 2006年発行

荒城の月

瀧廉太郎(明治12〜36年)は、東京芝の生まれで、
少年期を大分県竹田で過ごしました。音楽を志して上京し、
高等師範学校附属音楽学校(のち東京音楽学校)に入り、首席で卒業。
当時から俊才といわれました。

明治33年には合唱組歌「四季」を発表、
翌年出版の『中学唱歌』には「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」が採用されています。
この年ライブツィヒに留学しますが、すぐ病に冒され、明治36年、23歳10ヶ月で亡くなりました。

作詞の土井晩翠(明治4〜昭和27年)は、島崎藤村と並び称された詩人。
「荒城の月」作詞の際は、仙台の青葉城、あるいは会津の鶴ヶ城を想定したといい、瀧は竹田の岡城を思い浮かべて作曲したといわれています。
いまは、いずれにも碑が建てられています。

平成15年、廉太郎没後百年を記念して、ライブツィヒの地に、記念碑が建てられました。
碑には「日本の近代音楽の扉を開いた業績は永遠に輝き続ける」などと刻まれ、
除幕式の最後には「花」がうたわれたといいます。








瀧廉太郎記念館「案内板」

瀧廉太郎は、12歳から14歳まで、郡長であった父に従がい、竹田に住み、ここではじめてオルガンを習います。
ところが、当時大分県にはピアノが一台もなく、オルガンの先生も少ないため音楽を勉強するには東京、
というわけで上京したということです。

その竹田には、いま当時の住居が復元され瀧廉太郎記念館となっています。
瀧もよく遊びに行った岡城の上には同窓の朝倉文夫作の銅像も置かれ、竹田界隈を一望のもとに見ることができます。
なお、瀧には、東くめらと協力して作った、はじめての伴奏つき『幼稚園唱歌』があり、
ここには「鳩ぽっぽ」や「お正月」が収められています。






撮影日・2013年2月21日


 


軍神広瀬中佐 


場所・大分県竹田市 広瀬神社


子どもの時、母の話に度々登場する人物の御三家。
楠木正成、爆弾三勇士、広瀬中佐。

なんど聞いたことだろう〜杉野はいずこ、杉野はいずや





大分県HPより

竹田市広瀬神社の鳥居前に建つ広瀬武夫の胸像。
全身像(M40.4渡辺長男作)をもとに製作し、昭和48年3月に設置された。
日露開戦間もない明治37年早春。
日本海軍は旅順港内のロシア太平洋艦隊を封殺するため、閉塞作戦を実施した。
旅順港入り口に老朽船を沈め、敵の航路をふさごうという危険な作戦である。
軍艦「朝日」の水雷長(当時少佐)広瀬武夫は、この決死隊指揮官として二度にわたって出撃した。
二度目の出撃のさい、予定地点で福井丸の爆薬に点火、
退避するが部下の杉野兵曹長の姿がないのに気付き、沈みゆく福井丸にとって返し、ついに散弾に斃(たお)れる。37歳であった。
広瀬は明治元年、竹田市の士族の二男坊に生まれる。
兄も海軍軍人。
海軍大尉時代にロシア駐在武官となり、この間ヨーロッパ各国を視察した。
漢詩を愛し、ロシア語に熟達、講道館柔道に熱中(六段)する。
風雲渦巻く明治という時代を太く短く生きた男だが、軍人にしては珍しい幅広い視野を持っていた。
滞露中、ロシアの子爵令嬢から惚れられた話は有名である。
若い頃は侠客清水次郎長ともつき合いがあった。
人間広瀬の周囲にはいつもほほえましい話題が尽きない。








「広瀬中佐の銅像」 
もりたなるお  新人物往来社 2002年発行

(・・昭和15年2月東京神田の銅像前・・)

「広瀬武夫海軍少佐は、過ぐる日露戦争において、敵国ロシヤの東洋艦隊の基地たる旅順港閉塞に従事しました。
朝日水雷長たりし広瀬少佐は、連合艦隊司令長官の命により、閉塞船指揮官として勇躍出撃したのであります。
広瀬少佐は出撃に当たり
『一死心は堅し。再び成功を期す。笑いを含みて船に上る。七度生まれて国に報ぜん』
の詩を残したのであります。

広瀬少佐らが指揮する四隻の閉塞船は、敵国ロシヤの砲台及び哨戒艇より撃ちくる弾雨をもろともせず、猛虎の勢いをもって旅順港に突進し、
一番船、二番船、三番船とも爆沈して、港口閉塞の目的を達しつつありました。
そして四番船は敵の駆逐艦と衝突し、さらに敵の魚雷を受けて爆沈。
爆沈せし船の乗員は短艇に移ったのでありますが、上等兵杉野孫七の姿がありませんでした。
部下思いの広瀬少佐は、沈没しかかる閉塞船に飛び移り、杉野上等兵曹を捜し求めたのであります。
船内をくまなく捜せど見えません。
船はみるみる沈んでいきます。
もはやこれまでと短艇に移りました。沖合いに向けて脱出する短艇に、敵哨戒艇より発する弾丸が雨あられと降りそそぎ、
その一弾が広瀬少佐の頭部を貫いたのです。
もんどりうって海中に没し、再び浮き上がりませんせした。

時に37歳、壮絶非絶なる忠死は大本営に達し、中佐に昇級し、功三級金鵄勲章ならびに勲四等旭日小綬章を授けられ、正四位を賜りました。
また杉野孫七上等兵曹も兵曹長に進級し、いくつもの栄誉を下賜されました。
人々は軍神広瀬中佐とその名を称え、長くその勲功を記念すべく建立されたのがこの銅像であります」

説明が終わるまでに見学者が次々ときて、先にいる人たちと入れ替わった。
写真屋がいて、銅像を背景にして記念写真を写す人が順番待ちをするほど繁昌している。

「はい、写しますよ」の合図でシャッターを切った。
二度写して記念撮影が終わると、生徒たちは緊張がほぐれた。

二列縦隊で歩き出した時、級長が広瀬中佐の歌をうたい出した。

?
轟く砲音飛来る弾丸
荒波洗うデッキの上に
闇を貫く中佐の叫び
杉野は何処 杉野は居ずや


唱和は広がり、全員の合唱になった。
歩く生徒の列に、拍手する人もいた。






戦犯美術

昭和31年7月に、経済企画庁は”もはや戦後ではない”と結語に記した。
新聞記者奈川は、戦犯銅像の取材を担当することになった。

「銅像にまで戦争犯罪が及ぶのですねかね」
「戦争意識を煽ったもののようです」

調査部の部屋に、戦犯銅像の資料があるか聞いた。
切り抜きのスクラップ帖があった。
昭和22年2月30日の日付スタンプあった。
大村益次郎のカット写真がついた記事だった。
”「軍服銅像」いよいよ追放--残るか「大村益次郎」”
という見出しがついている。

「かつての超国家主義や軍国主義を国民にふきこんだ銅像や記念碑、忠魂碑などの撤去の基準を決める

『忠霊塔、忠魂碑等の撤去審査委員会』は、2月28日顔ぶれを決定。
3月早々に審査に取り掛かるが、各所の忠魂碑など既に取りはずしがはじまったものもある。
都内の銅像、記念碑等は戦時中200余とおしえられ、そのうち軍服姿のいかめしいのが4、50、
それらはただ侵略主義、軍国主義の宣伝に一役買っただけで美術的に価値はないものが多い。

芸術的価値のあるものは、戦時中に軍需物資として供出し、溶鉱炉に投げ込まれてしまった。
残っているのは軍事色の強いものばかりであった。
ほとんどが追放されるものと考えられる。
さて、それらの銅像であるが、
皇居前の”楠木正成”、靖国神社の”大村益次郎”、須田町の”広瀬中佐、杉野兵曹長”をはじめてとして云々」



渋谷といえば駅前のハチ公が有名だ。
ハチ公銅像は忠犬ハチ公ともいったのを覚えている。
「忠義の犬ということだと・・・」
ふと考えた。
戦犯銅像は忠義の士が指定されるという。
そうなると忠犬はどうゆうことになるのか。

忠犬として称えられたハチ公は、戦争中の金属不足のために溶かされて兵器にされてしまった。
忠臣楠木正成や忠勇義烈の広瀬中佐像は供出を免れたが、同じ忠義でもハチ公は飼い主に忠義だったから残されなかったのか。

天皇陛下のために戦って忠義を尽くしたからだ。
天皇陛下に忠義を尽くした者が戦犯像ということで、それでいいのか。
逆臣とされる足利尊氏の像や、皇位を盗もうとした弓削道鏡の像はおかまいなしなのか。
わからないのは審査結果を待たずになぜ取り外しをはじめたのかである。

T大学副学長東川教授に取材に行った。
副学長は、
「たとえば東郷元帥銅像ですが・・・これが建つのは日露戦争が終わってからのものでしょう。
楠木正成にいたっては600年前の武将です。
今度の戦争とは無関係です。
像も古典作品のはずです。

上海事変の時の肉弾三勇士や、真珠湾攻撃の九軍神像といったものは、
東京裁判が扱った侵略戦争に関係しますから、これは戦犯銅像だということになるでしょうがね」



「広瀬中佐の銅像はいかがですか」
「これも東郷元帥同様に日露戦争のときでしょう。
東京裁判の対象範囲外とみるほうが常識的ですがね」

「戦犯像指定の理由は、軍国主義や侵略戦争を鼓舞した銅像となっています」
「そうゆうことなら、楠木正成銅像も広瀬中佐銅像も、それから九軍神も同一ですね。
しかし・・・占領軍が個別にいちいち指定してきたのだろうか」

奈川は東京都庁を訪ねた。
図書室に案内され、謄写版刷りの公文書を見せられた。

渉外部長からGHQ関係者宛に提出したものだった。

昭和22年3月24日
忠霊塔、忠魂碑等の撤去について
左記の通り報告します。
撤去したもの
「銅像」 大楠公、乃木大将、東郷元帥他。
撤去に着手したもの
「忠魂碑」「日露戦争記念碑」他。
「銅像」 肉弾三勇士、東郷元帥他。
「灯篭」「日清戦争戦勝記念碑」他。
審査を要するもの
「銅像」 北白川宮殿下、有栖川宮殿下、大山巌、東郷元帥、広瀬中佐、大村益次郎、榎本武揚他。
「碑表」 八紘一宇、紀元二千六百年他。
以上撤去したもの16件、着手したもの16件、審査を要するもの26件

元都職員、現区会議員の自宅で取材をした。

「学校、神社、役場、公園、それから個人の所有地、墓場にある戦死者の供養塔などを加えるとたいへんな数になりました。
そのなかから主なものを選び出したんです」
「銅像に関しては基準があったんですか」
「軍国主義がいけないということで、軍服の銅像を目安にしました」

「東郷元帥ですが、軍服以外の銅像もありましてね。私服のものは対象外にしてもいいのではと」

「靖国神社の大村益次郎ですが、この人は明治政府の軍務官判事です。
維新政府の軍制を確立した歴とした軍人ですから、撤去の対象にはなりました。
しかし大村益次郎像は、刀は差しているけど羽織袴姿で完全な武装とはいえません。
リストには残しましたがどうしたものかと議論もあったです」

「そうすると上野の西郷さんは」
「西郷隆盛は日本最初の陸軍大将ですからね、当然リストアップされました。
しかし着流しで犬を連れて散歩をしている像です。
復権はしましたが賊軍の大将という汚名を着せられた経緯があるので、最終的には外しましたね」

「忠霊塔、忠魂碑等の撤去についての,GHQの指令はどういうものだったんですか」
「軍国主義、侵略主義を象徴したもの、鼓舞するために置かれたものは、これを目撃出来ないような措置を取るべしといった意味のものだったと思います。
人目につかないように措置するということなので、背丈の低い記念碑の類は、覆土したものもあったらしいです」


・・・

もう一度都庁へ取材に行った。
「戦犯像の、撤去処置をしたときの記録がありません」
「昭和22年といいますと占領下のもっとも不安定なときでしたから、
あるいは撤去命令だけで、その後の処置についてはなんの指示もなかったのかもしれません」

・・・

「広瀬中佐の銅像」  もりたなるお   新人物往来社  2002年発行


・・・・

広瀬武夫
(Wikipedia)


兵学校卒業後、日清戦争に従軍し、1895年(明治28年)には大尉に昇進。
1897年(明治30年)にロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。
1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。
3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。
撤退時に部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた。
救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。
5日後、広瀬の遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるところをロシア軍によって発見された。
戦争中であったが、ロシア軍は栄誉礼をもって丁重な葬儀を行い、陸上の墓地に埋葬した。

日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には1935年(昭和10年)に岡田啓介(当時の内閣総理大臣)らと地元数百名の手により広瀬神社が創建された。
また文部省唱歌の題材にもなる。
明治末期に、銅像が国内に3体建立された。



撮影日・2013年2月21日


 
 


一松定吉先生像 


場所・場所・大分県杵築市大字南杵築  一松会館


城下町・杵築は坂・海・城・川の街並みが素晴らしい。
武家屋敷が並ぶ高台に旧一松(ひとつまつ)邸がある。


一松定吉先生は、大阪で法曹・政治を長くつづけた。
昭和17年の、いわゆる”翼賛選挙”では、非推薦の当選者になった。







(Wikipedia)

一松 定吉

1875年、大分県西国東郡美和村(現・豊後高田市)に生まれる。
明治法律学校(現・明治大学)を卒業し長崎、大分、横浜、大阪などでの検事を経て、大審院検事をつとめる。
1920年、弁護士に転じる。
1928年、大阪1区から第16回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で出馬し初当選、
1947年の第23回衆議院議員総選挙まで連続8回当選を果す。
第1次吉田内閣の国務・逓信大臣、片山内閣の厚生大臣、芦田内閣の建設大臣、日本進歩党の幹事長等を歴任した。
1949年の第24回衆議院議員総選挙には落選し、翌年の参議院議員選挙に国民民主党公認で出馬し当選、参院議員に転身して2期務めた。
所属政党
立憲民政党→日本進歩党→民主党→国民民主党→改進党→日本民主党→自由民主党







(杵築市HP)

一松 定吉(ひとつまつ さだよし)

鬼検事の異名をもつ法曹家・政治家 一松 定吉
明治8(1875)年〜昭和48(1973)年
豊後高田市出身で、一松家の養子となる。
判事・検事・弁護士として活躍。
鬼検事の異名。
昭和3(1928)年に衆議院議員当選、以後衆・参両院議員に当選。
逓信・厚生・建設の各大臣を歴任。
私邸を市に寄贈(現一松邸)、杵築市名誉市民。






撮影日・2013年2月22日


 
 


村上勇 


場所・大分県佐伯市







(Wikipedia)

村上 勇

むらかみ いさむ
生年月日 1902年4月7日
出生地 日本の旗 日本 大分県南海部郡大入島村(現佐伯市)
没年月日 1991年1月28日(88歳没)

1946年の第22回衆議院議員総選挙で日本自由党公認候補として旧大分1区から出馬し当選、
以後当選14回(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江崎真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・川崎秀二・井出一太郎・早川崇など)。党内派閥では大野伴睦派に所属する。
大野に見込まれ、第3次鳩山内閣で郵政大臣、第2次岸改造内閣で建設大臣と陽の当たる道を歩んだ。
1955年には保守合同(自由民主党結党)に参加。

1964年に大野が亡くなると入閣候補の推薦を巡って派内が紛糾し、先輩の船田中、当選同期の水田三喜男らと袂を分かつ形で巽会(村上派)を旗揚げ。
1977年10月、同年4月に死去した賀屋興宣の後を受けて日本遺族会会長(第5代)にも就任した。














撮影日・2013年2月20日


 
 


臼杵の摩崖仏

場所・大分県臼杵市



臼杵摩崖仏


古園石仏大日如来像に代表される国宝臼杵石仏(磨崖仏)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたと言われています。
その規模と数量において、また彫刻の質の高さにおいてわが国を代表する石仏群であり、平成7年6月15日には磨崖仏としては全国初、59体が国宝に指定されました。
(現在は61体すべての磨崖仏が国宝に指定されています。)

石仏群は4群に分かれ、地名によって、ホキ石仏第1群(堂ヶ迫石仏)、ホキ石仏第2群、山王山石仏、古園石仏と名づけられています。
それぞれに傑作秀作ぞろいであり、表情豊かな御仏の姿は、みる者の心にやすらぎをあたえてくれます。


臼杵市観光協会













撮影日・2013年2月20日











作成・2021年10月11日 追記・2021年10月15日