銅像の人  大分県
 

伊東マンショ騎馬像 

場所・大分県大分市大手町(遊歩公園)
制作・1975年(昭和50年)







天正使節団


天正10年頃、豊後の受洗者は1万を超えた。
日本人宣教師がさかんに養成された。
神学校の少年の進歩に驚き、その成果をローマ教皇やポルトガル王に示すことを考え、
少年使節の派遣となった。
大友・有馬・大村の三大名を説き、神学校の生徒から4人を選んだ。

天正10年1月28日長崎を出航、マカオ・マラッカをへてゴアに着いた。
インドから喜望峰・セントヘレナ島を経て天正12年8月11日ポルトガルのリスボンに着いた。
マドリッドでフィリップ2世に謁して翌年船でイタリアにはいり、3月20日ローマに着き、
84歳の老教皇グレゴリオ13世に謁見して三大名の書状を奉呈した。

帰路は天正13年6月3日にローマを発し、ジェノバから乗船しイスパニアで皇帝・皇后に謁し、
ポルトガルのリスボン発は翌年2月14日であった。
アフリカをまわってインドのゴア、マカオを経由して、天正18年6月16日、
前後8年を要して長崎に帰着した。

「大分県の歴史」  渡辺澄夫  山川出版社  昭和46年発行








今からおよそ390年の昔、はるかな東洋の果て日本から、
ヨーロッパへの最初の使節として、リスボンではじめてヨーロッパの土を踏んだ4人の少年たちがあった。
16世紀のヨーロッパは、スペインやポルトガルの船乗りが世界に雄飛した大航海時代である。
イタリアには芸術の花が咲き誇ったルネサンスの時代でもあった。
一行がヨーロッパに到着した1584年は、日本の年号で天正12年である。

・・・

少年使節一行がエスコリアルに泊った頃は、スペインの黄金時代であった。
だが、4年後少年たちが帰国途中イギリス海軍により無敵艦隊は敗れた。
一方、8年5ヶ月の旅を終え帰ってきた日本もまた大きく変わっていた。
大友宗麟、大村純忠は既に世になく、
秀吉の宣教師追放令とともに、日本のキリシタンにとって暗い長い時代が始まろうとしていた。


千々和ミゲルが3〜4年で棄教。迫害者側につく。
伊東マンショ慶長17年長崎で病死。
原マルティノ、マカオで病死。
寛永10年(1633)、長崎で老神父が殉教した。
「われこそは、ローマを見た中浦ジュリアンである」と刑場で誇らしげに絶叫したという。


「日本史探訪11」 角川書店編 角川文庫  昭和59年発行







撮影日・2013年2月21日


 


健ちゃん 


場所・大分県大分市大手町(遊歩公園)
制作・








撮影日・2013年2月21日


 
 


西洋医術発祥記念像 


場所・大分県大分市大手町(遊歩公園)
制作・1972年(昭和47)






西洋医学発祥記念像


説明
大分市の府内城跡から南へ450m続く遊歩公園。
ここは、南蛮文化が栄えた当時の府内≠ェ感じられる銅像が数多く立ち並んでいます。
歴史から学ぶ新しい文化を感じながら、あなたも歩いてみませんか。
西洋医学発祥記念像、ポルトガルの青年医師アルメイダだが、日本人助手とともに手術を行おうとする像。








撮影日・2013年2月21日

 
 


滝廉太郎 


場所・大分県大分市大手町(遊歩公園)
制作・1972年(昭和47)















撮影日・2013年2月21日

 

xxxx像 


場所・大分県xx市xx町
制作・










撮影日・xx年xx月xx日

   









作成・2021年10月11日  追記・2021年10月15日