銅像の人  福岡県
 

大関魁皇

場所・福岡県直方市大字山部   JR直方駅前


(福岡県議会HP)
大関魁皇」像建立記念式典及び除幕式

平成26年10月26日、「大関魁皇」像建立記念式典及び除幕式が直方市で行われ、加地邦雄議長が出席しました。
「大関魁皇」像は、大相撲史上最多の1047勝をはじめ数々の記録を残した大関魁皇の功績を顕彰し、
後世に伝えようと建立されたもので、高さ約2.4メートルのブロンズ製の像が、
元大関魁皇関(浅香山親方)の出身地である直方市のJR直方駅前広場に完成しました。
式典と除幕式には、浅香山親方(元大関魁皇関)も出席され、大勢のファンや市民が集まりました。






普通、巨漢力士と小兵力士が土俵にあがると、
巨漢力士の方が悪役的なあつかいの雰囲気になるが、魁皇だけは違った。

気は優しくて力持ちのイメージで人気があった。


今、”名大関”だった人は?と問われたら、
自分は南海の黒豹・若嶋津と魁皇をあげる。

二人とも名大関だった。







撮影日・2017年2月14日
 


小倉祇園太鼓 


場所・福岡県 北九州市 小倉北区 浅野
















撮影日・2013年2月23日

 
 


炭坑夫 


場所・福岡県直方市直方  直方市石炭博物館



直方は炭鉱の町、というイメージだが、
筑豊炭鉱の中央に位置し、石炭を掘り出す町でなく、石炭の中継基地として発展した町。


筑豊炭田
(直方市石炭博物館のHP)

筑豊炭田は、福岡県の北九州市、中間市、直方市、飯塚市、田川市、山田市と遠賀郡、鞍手郡、嘉穂郡および田川郡の6市4郡にまたがる日本でも主要な石炭の産地でした。
明治に入ってから筑豊炭田の開発は急速に伸び、その生産は全国石炭の60%以上をこの炭田から掘り出したこともあった。
出炭量の年間最高は昭和15年で、炭鉱数では昭和27年末で全国949炭鉱、九州では昭和28年度の540鉱、筑豊では昭和26年度の265鉱が最も多かったが、
それが昭和48年12月では全国40鉱、九州12鉱、筑豊では坑内採掘の炭鉱は0になった。
埋蔵炭量を見てみると、昭和31年の調査で全国87億9千5百万トン、九州は34億6千1百万トン、筑豊は17億9千万トンとなっている。







九州鉄道

明治21年九州鉄道が県令の下で発足し、同年博多-久留米間の工事に着工。
翌年博多-鳥栖間が開通、明治24年には門司-熊本、鳥栖-佐賀が開通した。
このような鉄道開通をみて、筑豊の炭坑経営者の中で、
石炭輸送のための必要性が一層強く要望されるようになった。
川船のみによる輸送はもはや困難になった。川船では供給過剰となった。
やっと明治24年1月着工、8月に若松-直方が開通。
明治25年、直方-小竹、
明治26年、直方-金田、小竹-飯塚。筑豊鉄道と九州鉄道が結ばれる。
筑豊の石炭は鉄道で門司港に直結し、さらに海外市場へと運ばれることになった。
そのころ日清戦争が起こり、さらに増加し、全国出炭量の54%を占めた。
豊洲鉄道も明治28年、小倉〜行橋、行橋〜伊田間が開通した。

「福岡県の歴史」 平野・飯田共著 山川出版社 昭和49年発行








撮影日・2017年2月14日




2021年05月26日
 
 


炭鉱夫の像 


場所・福岡県田川市伊田  田川市石炭記念公園


田川市
(Wikipedia)
明治から1960年代にかけて

明治末から、田川は三井を中心とした炭鉱の街として繁栄した。
1900年、三井田川鉱業所が設立されると、仕事を求めて全国から移住者が訪れた。
田川は筑豊最大の炭都として栄え、1943年、後藤寺町と伊田町が合併し、田川市が誕生。
戦後、1950年代には人口が10万人を突破した。
しかし、1960年代のエネルギー革命でエネルギー源が石炭から石油に転換すると、石炭産業にかげりが見え始めた。
1964年、三井田川鉱業所は閉山。
その後は新会社の新田川炭鉱が事業を引き継ぐ形で操業を始めたが、1969年に閉山。
この影響で、市内に残っていた小規模炭鉱も閉山を強いられ、1971年に田川市内の炭鉱は全て閉山した。







「福岡県の歴史」 平野・飯田共著 山川出版社 昭和49年発行

筑豊炭田はすでに文明10年(1478)に遠賀郡で土民が薪として採掘していた。
江戸時代になると上方にも石炭が燃料として使われた。
元禄時代になると農村だけでなく、城下町でも風呂の燃料として普及しはじめた。
製塩ようにも用いられた。
1750年頃には筑豊の石炭が県外に販路を拡大した。
農民の炭鉱夫で、庄屋が運営していた。
三池炭田は1721年から始まった。柳川藩。

筑豊には徳川時代より小経営が多く、三池は埋蔵量も多く,炭層も厚く、藩の経営によっていた。
製塩の燃料、外国船の燃料ん、用途拡大されていった。
三池では囚人が労働が86%を占めていた。三池は明治21年三井に払い下げされた。

筑豊は零細が多く、坑内の水との戦いであった。
蒸気ポンプの出現で軌道にのった。
炭量の増加は輸送問題を引き起こしてきた。
坑口から馬の背で最寄りの川岸に運ばれ、そこから「ひらた」と呼ばれる川舟に積まれ、遠賀川を下り芦屋・若松に運ばれた。

地元資本として三菱・三井に対抗したのは、
安川敬一郎・貝島太助、麻生太吉であった。”筑豊の御三家”と呼ばれた。
明治21年から海軍が直属の炭坑を開抗、30年頃払い下げ、三井や三菱が入手した。
明治26年から三池を合わせると60%を占めるようになった。



赤い煙突目当てにゆけば 米のまんまが あばれ食い

と、石炭景気に筑豊の赤レンガの煙突をめざして抗夫は集まってきたが、
かれらはいつも事故の危険に身をさらしていた。

嫁に行くときゃ 抗夫に行くな
ガスがばれたら 若後家よ ゴットン

と、保安設備のほとんどない地底で、落盤の危険にさらされながら歌ったゴットン節は、
明治30年ごろ、伊田地方の選炭場の歌となり、たちまち筑豊一帯にひろがった。

「筑豊炭鉱誌」(明治31年刊)につぎのように記す。
彼等の労働は地下幾百尺の底にて一点のカンテラを力として暗黒界裡に労働す。
その炭層薄くして天井の高さ四尺以下に及ぶものは匍匐(ほふく)して切羽に近づき
坐して炭塊を採掘し、甚だしきは匍匐のまま鶴嘴(つるはし)を振って採炭すること稀ならず、・・」


抗夫も相当な稼ぎになることもあった。
しかし何故危険な労働を強制されたのか。
かれらを炭抗に金しばりにしたのは、
筑豊特有の”納屋制度”と呼ばれる中間搾取機構である。
会社は”納屋頭”とよばれる人入れ稼業の親分と契約し、仕事を請け負わせた。
親分のもと抗外の生活までを支配した。
昭和の初年までつづいた。




昭和の初め、
炭抗夫の1/4は女抗夫であった。(昭和8年禁止)
盧溝橋事件で戦時体制にはいると、政府は朝鮮総督府を通じて多くの朝鮮人労働者の炭坑への移入をはかった。

禁止されていた女子の入坑を許可した。
太平洋戦争が始まると、労働社不足はさらに深刻化し、捕虜も使われた。
昭和20年8月の炭坑労働者は25万人であったが、
そのうち朝鮮人7万、捕虜3.500人、中国人5.600人と記録されている。











「教養人の日本史5」  藤井松一 現代教養文庫 昭和42年発行 

安保改定阻止の闘争は、経済的好況下での闘争であったが
”岩戸景気”の大きな例外は石炭産業であった。

石炭産業の斜陽化が叫ばれた。その斜陽化のしわよせは炭鉱労働者に向けられた。
29年以降、民間産業労働者のもっとも戦闘的な組織であるといわれる炭労に対して、
日本独占資本の総力をあげての挑戦が開始された。

独占ブルジョアジー自身が「総資本対労働者の対決」と呼号したこの攻撃が、
安保改定への性急な足どりの一環として開始された。



「福岡県の歴史」 平野・飯田共著 山川出版社 昭和49年発行

空前絶後の炭坑争議から3年後、
昭和38年11月9日、三池の三川鉱で炭塵爆発がおこり、死者458人と約700人の一酸化炭素ガス中毒患者などの重軽傷者がでた。
筑豊には今、炭抗が数えるほどしかない。
筑豊の象徴であった三角錐のボタ山も崩れ、くずされて工場に学校に住宅地に変わっていく。
筑豊に生きた人びとは歯ぎしりしている。











大人たちがお酒を飲むと、必ず歌うのが「炭坑節」だった。
生まれて最初に覚えたうたが「炭坑節」だったようにも思う。




「石炭の本」  藤田和夫編  日刊工業新聞社  2009年発行

炭坑節


盆踊りに登場する二大民謡は、東の「東京音頭」と西の「炭坑節」と言われています。

「月が出た出た月が出た〜」などの歌詞に代表されるものは、明治40年代に筑豊田川地区で生まれた民謡です。
大正初期に編曲して「炭坑節」と改題しました。
それ以前、筑豊の炭坑では無数の現場歌が名もない労働者によって作られ歌われつづけてきました。
炭坑節は筑豊の炭坑民謡の集大成的な歌です。

明治40年代、三井田川伊田炭坑に動力用の蒸気を発生させる汽缶場の大煙突が建てられました。
「伊田の炭坑の上に出た」月が「煙たかろ」と歌われた煙突です。
場所によって歌詞は変えられ、月は「三井炭坑」「三池炭坑」「三菱炭坑」に出ることになります。

この歌詞は、当時において東洋一の大竪坑と高い巨大な煙突に対する庶民の賛嘆から生まれたものです。
その後、田川郡で開催された勧業博覧会を記念して昭和6年に正調炭坑節としてレコード化され、全国に広まってゆきました。

第二次世界大戦後の石炭復興策で活況の兆しが見え始めた昭和23年には田川出身の芸者歌手赤坂小梅の炭坑節がレコード化され、
全国的に大流行して日本の代表的な民謡となりました。
赤坂小梅は昭和29年のNHK紅白歌合戦で炭坑節を歌っています。
この頃、
朝鮮特需によって全国の産炭地は石炭ブームに沸き立っていました。

日本の石炭産業が衰退した後も、炭坑節は歌い継がれ、
石炭産業の輝かしい時代があったことを後世に伝えています。






正調炭坑節 

香春岳から 見下ろせば
伊田のたてこうが 真正面
12時下がりの サマちゃんが
ケージにもたれて 思案顔
サノヨイヨイ

ひとやま ふたやま みやま越え
奥に咲いたる 八重つつじ
なんぼ色よく 咲いたとて
サマちゃんが 通わにゃ 仇(あだ)の花
サノヨイヨイ

月が出た出た 月が出た
三井炭坑の 上に出た
あんまり煙突が 高いので
さぞやお月さん 煙たかろ
サノヨイヨイ

格子窓から 月がさす
サマちゃんの寝顔の 愛らしさ
はずした枕を すけさしょか
思案なかばに 明けの鐘
サノヨイヨイ


炭坑節

月が出た出た 月が出た
三池炭坑の 上に出た
あまり煙突が 高いので
さぞやお月さん けむたかろ

あなたがその気で 云うのなら
思い切ります 別れます
もとの娘の 十八に
返してくれたら 別れます

一山 二山 三山 越え
奥に咲いたる 八重つばき
なんぼ色よく 咲いたとて
サマちゃんが通わにゃ 仇の花

晴れて添う日が 来るまでは
心一つ 身は二つ
離れ離れの 切なさに
夢でサマちゃんと 語りたい

お礼を枕に 寝るよりも
月が射し込む あばら家で
主の腕に ほんのりと
私ゃ抱かれて 暮らしたい

竪抗千尺 二千尺
下りゃ様ちゃんの ツルの音
ままになるなら あのそばで
私も掘りたや 黒ダイヤ




撮影日・2017年2月14日

 
 













作成・2021年10月11日  追記・2021年10月20日