銅像の人  佐賀県
 


鍋島直彬  


場所・佐賀県鹿島市  鹿島高校

















撮影日・2014年1月11日


 
 


愛野與一郎先生像 


場所・佐賀県鹿島市






(Wikipedia)

愛野 興一郎
(あいの こういちろう)

1928年4月18日 - 1998年3月20日)
父は実業家で元衆議院議員。
農協組合長、佐賀県議会議員、祐徳自動車副社長・社長。
1972年の第33回衆議院議員総選挙に自由民主党から立候補し初当選。当選回数9回
自民党では田中角栄→竹下登派に所属する。
1989年、済企画庁長官。
1992年、自民党を離党、新生党を結成した。
1998年、反小沢の旗頭であった鹿野道彦を代表とする新党・国民の声に参加した。
同年3月20日死去(享年69)。













撮影日・2014年1月11日



 
 

奥村五百子  


場所・佐賀県唐津市東城内

奥村五百子のことは知らなかったが、杉村春子が奥村五百子を演じた映画になるほどの人だった。
創立した「愛国婦人会」は、背景に軍人や軍国主義があるため、奥村の再評価は難しいように思える。







奥村 五百子(おくむら いおこ)
(Wikipedia)

弘化2年5月3日(1845年6月7日)−明治40年(1907年)2月7日)は、幕末・明治期の社会運動家。愛国婦人会の創設者。

経歴
肥前国唐津出身。
父は真宗大谷派釜山海高徳寺の住職で、父の影響を受けて尊王攘夷運動に参加、文久2年(1862年)には男装の姿で長州藩への密使を務めたこともあった。
同じ宗派の福成寺の住職・大友法忍に嫁ぐが死別、続いて水戸藩出身の志士の鯉淵彦五郎と再婚するが離婚する(征韓論を巡る意見対立が理由とされる)。
離婚後、唐津開港に奔走する傍ら朝鮮半島に渡って明治29年(1896年)、光州にて実業学校を創設、半島への浄土真宗布教のために渡った兄・奥村円心を助けた。
北清事変後の現地視察をきっかけに女性による兵士慰問と救護や、遺族支援が必要と考え、1901年に近衛篤麿・小笠原長生や華族婦人らの支援を受けて愛国婦人会を創設する。
以後、会のために日本全国で講演活動を行い、日露戦争時には病身を押して献金運動への女性の参加を呼びかけ、戦地慰問に努めた。




愛国婦人会(あいこくふじんかい)
戦前に国防及び戦死者の遺族・傷病兵を救うために結成された団体である。

1900年(明治33年)に起きた北清事変(義和団事件)に際し、佐賀県唐津市出身の社会運動家、婦人運動家の奥村五百子が、本願寺慰問使の一員として戦場に赴き、つぶさに前線将校・兵士の惨苦を視察して帰国。陸海軍の支援や政治家の近衛篤麿らの援助により1901年(明治34年)2月24日に創立した。

初代会長は宮内大臣であった岩倉具定の妻岩倉久子が務め、1903年(明治36年)には皇族の載仁親王妃智恵子を迎え入れた。

1920年、会長に下田歌子が就任。1927年、会長に本野久子が就任。1937年時点で、会員数311万人余に達し、内地のみならず樺太・南洋諸島・朝鮮・台湾・満州国にも地方組織が置かれていた。

1941年(昭和16年)6月10日、定例閣議において、大日本連合婦人会および大日本国防婦人会の婦人3団体の統合要項が決められた。
翌1942年2月、大日本婦人会(日婦)の結成がなされ、発展的解消をとげた。最終的に内閣の決断を仰がねばならなかったところが、統合の困難さを物語っている。


活動内容
当初は戦没将士の遺族および廃兵の救護を目的としたが、1917年(大正6年)欽定を改正して他の救護事業にも当たるようになった。
関東大震災後の救済その他救護館の設立、婦人職業紹介、花嫁紹介など、幅広い活動を行った。
また、機関誌『愛国婦人』も発行し奥村は全国遊説にあたって会員を増やした。

初期は上層階級の婦人や皇族、貴族が大半を占めていたが、日露戦争時の1905年(明治38年)には一般婦人にも拡張。会員数は46万人に達し、日本最大規模の婦人団体に成長した。
各府県支部長には知事夫人が就くなど、地域名士の夫人が役員に名を連ね、サロンの趣きがあった。











撮影日・2014年1月11日



 
 
おしまさん  

場所・佐賀県鹿島市

おしまさんは豊作の神様として、今でも有明海沿岸の人々に信仰されているようだ。








(Wikipedia)

おしまさん
『江戸時代に旱魃に悩む村を救うため、雨乞いの願をかけた村娘「おしま」が海に身を投げた。
まもなく島に流れ着いた遺体が発見されたところ大雨が降り豊作となったため、おしまを島に奉り雨乞いの神として信仰した』という伝説があり、旧暦6月19日に小城市や鹿島市、佐賀市久保田町など沿岸各地で浮立を奉納し、沖ノ島にあるおしまの石像にお神酒やおにぎりを奉納する神事「沖ノ島参り」が行われる。雨乞いの神事であり、豊作を願うものであるため沿岸部以外でも行われており、佐賀市金立の金立神社では50年に一度沖ノ島に参る「お下り」という神幸祭が行われる。しかし、沿岸部での浮立は減少しており、内陸部でも佐賀市の八坂神社など祭りが途絶えてしまったところも多い。







佐賀県鹿島市観光協会

沖の島まいり(おしまさんまいり)

沖の島(おしまさん)まいりとは、大漁豊作や航海安全を祈願するため、有明海沿岸の各地域から有明海の「沖ノ島」へ向けて船が出航することです。
鹿島市では、七浦地区の集落から道の駅に複数の船が集まり、沖ノ島へ向かう前に船上で「浮立(ふりゅう:かねや太鼓、笛の音に合わせて踊ること)」や「皿踊り」が披露されます。
それと同時に七浦地区の夏祭りが開催され、郷土芸能の披露や盆踊り大会などが行われます。

沖の島まいりの由来は次のとおりです。江戸時代に干ばつに見舞われたときに、「おしま」という娘が雨が降ることを願って有明海に身を投げ、流れ着いた先が沖ノ島であったと伝えられています。そして、おしまさんの命日である旧暦の6月19日に、船に乗って沖ノ島へお参りに行っていたことが始まりになっています。




撮影日・2014年1月11日


 
 
 













作成・2021年10月11日  追記・2021年10月20日