銅像の人  徳島県
 

蜂須賀家政 

場所・徳島県徳島市徳島町城内   徳島中央公園



戦時中に供出し、戦後に再建の銅像は何千とあろうが、人物を変えての再建というのは珍しい。






蜂須賀家政
戦争挟み父子交代


羽柴秀吉の四国征伐に蜂須賀正勝(小六)家政父子は従軍し軍功をたて、阿波の大名になった。
秀吉は正勝に与えようとしたが、高齢を理由に辞退し家政に譲った。

家政は阿波にはいると、秀吉の意向に従って兵農分離などを断行。
徳島城を造り、城下町を整備した。
製塩業、製藍業なども興し、現在につながる徳島の基礎を築いた。
ところが秀吉没後徳川家康に近づき、
関ケ原には嫡男至鎮を東軍に参加させ、自らは隠居した。
家康から至鎮に阿波が与えられた。
蜂須賀家の徳島藩は明治維新まで続いた。

戦時中までこの公園に立っていたのは、長い槍をもつ、甲冑姿の正勝の銅像だった。
大正2年に建立。

正勝像は戦時中の金属類回収で失われ、
戦後の1965年に穏やかなかみしも姿の家政像が建てられた。
丸顔の家政像に武将の面影はない。
平和な時代になって荒々しい武将から平和な殿様へのイメージチャンジをさせた。


「銅像歴史散歩」 墨 威宏 ちくま新書  2016年発行









撮影日・2013年9月19日


 


菅原道真公 


場所・徳島県徳島市眉山町天神山  眉山天神社

菅原道真公を祀った神社数は、万を超えるから、その銅像も全国に多々あるはず。
このブログでは、徳島市の眉山ロープウェイ駅前にある菅公像を代表して載せる。







天神様

八百万の神々のうち、天神様ほど日本人に親しまれた神様は珍しい。

天満天神。
この神様の正体こそ、平安王朝の花開いた9世紀の末から10世紀初めにかけて、たぐいまれな才能を持ちながら、
悲劇的な最後を遂げねばならなかった文人政治家、菅原道真である。

道真は儒学の学者の家柄で、血筋を受けて、少年時代から当代随一の秀才という呼びこえが高く、
官僚として順調な出世コースを歩いた。
昌泰2年(899)55歳の道真は、右大臣右大将となり、ライバル藤原時平は左大臣・左大将になる。
昌泰4年、道真57歳、太宰府へ左遷。
延喜3年(903)59歳の人生を閉じる。

道真の死後、京都では天地異変がしきりに起こった。
旱天・流星・大地震などが続き、
人々は道真の怨霊が京の空に舞い戻ってきたのではないかと噂し、
人心の動揺は、はなはだしいものがあった。

このため、朝廷では神社を建立して道真の霊を慰めることとした。
大宰府天満宮・北野天満宮などのいわゆる天神社がそれである。
その後、天満天神はしだいに文筆・学問の神として庶民の信仰を集めるようになった。
そして、江戸時代には
「菅原伝授手習鑑」のような歌舞伎芝居にも取り上げられ、
天神様は手習いの神様として親しまれ、全国に広まっていったのである。

現在、全国の神社総数はおよそ8万、このうちいわゆる天神様は1万1千を数える。


「日本史探訪5」 角川書店編  角川文庫  昭和59年発行






撮影日・2013年9月19日



 
 
 


小便小僧 (祖谷渓) 


場所・徳島県三好市池田町松尾


徳島県の祖谷渓は、道路事情もよく、吉野川の渓谷をずいぶんと、すいすい行くのだが
そこは「日本三大秘境」、途中からは道も狭くなり、昔の雰囲気を感じさせる。









道が出っ張ったところに「小便小僧」が立っている。
山は深く、底ははるかに下、対岸は急峻な山々。
祖谷渓の観光名所になっている。




三好市観光案内所

小便小僧
祖谷川沿いの断崖には、祖谷街道の開設工事で残った岩が多数突き出ています。
小便小僧は、街道中一番の難所といわれる七曲(ななまがり)にあり、谷底まで200mの高さがあり、
1968年に徳島県の彫刻家、河崎良行氏が制作したものです。
由来として、その昔、子供や祖谷街道工事の作業員、旅人たちが、像のある岩のあたりで小便をして度胸だめしをしたという伝えがあります。
※柵を乗り越えての写真撮影は、大変危険ですのでお止めください。












撮影日・2009年10月7日



 
 

小便小僧(子供平和記念塔)

場所・徳島県徳島市徳島町城内 徳島市中央公園


徳島城は蜂須賀家25万石の平山城、日本100名城。
阿波の青石の石垣と堀が壮大に残っている。
阿波踊りが、あまりに有名なので、この名城はやや認知度が落ちる。仕方ない。

城跡は今、「徳島中央公園」となっていて、歴史や文化やスポーツを楽しめる。






公園に「小便小僧」があるので行ってみると、
それは
「子供平和記念塔」だった。










子供平和記念塔

子供平和記念塔は、世界の平和がいつまでも続くようにと願って、
昭和23年に県子供民生委員の主唱でつくられたものであり、
塔に埋め込まれている石は、徳島の子供達の呼びかけに応じた全国の小中学生やアメリカの子供達から送られてきた特色のある石や化石が使われており、
その中には皇太子殿下(今上天皇)から贈られた石(那智の名石2個)もある。
 
搭上にあるブロンズの子供像は、県内の学童からデザインを募集し、
福島小学校6年の速水和明さんの作品が第一位に選ばれ、
そのデザインを基に日和佐町の彫刻家・大田三郎氏の制作による。
長年の風雨により痛みが激しくなったので、平成7年戦後50年を機に修復され、
盗難にあっていた二羽のハト像も復元された。

     塔の高さ      約4,6m
     搭上の子供像   約1m(ブロンズ像の小便小僧)
     竣工日       昭和23年(1948年)11月3日
     総工費       36万8000円(全額徳島県下の子供達による献金)
                            徳島市公園緑地課

        



撮影日・2013年9月19日












作成・2021年10月11日 追記・2021年10月20日