銅像の人  愛媛県
 


藤堂高虎像 



場所・愛媛県今治市通町
制作・2004年(平成16年)



「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行

藤堂高虎
処世にたけたスパイ大名


戦国時代は、よき主君をもとめて諸家を渡り歩くことはふつうに行われ、
「七たび主家を変えねば一人前とは言えぬ」といわれたほどであった。
その意味での典型が藤堂高虎である。
高虎は七たび主人を変えた。

とりたてて挙げるべく武勇譚がほとんどない。
高虎は槍ばたらきよりも、人間関係を滑らかにすることで世を渡ろうとしたようである。

高虎は、秀吉死後の天下人を、家康とみとめ、しきりと接近をはかり、家康の対立者たちの情報を細大もらさず家康の元へ運びこんだのである。
高虎の家康への献身は、当の家康が死んだ後もつづく。


【藤堂高虎】

近江浅井郡藤堂郷に生まれる。
浅井家の滅亡後、主家を転々とし、文禄3年(1594)秀吉につかえて伊予宇和島で7万石。
第二次朝鮮の役では水軍として出動。
関ケ原役後、伊予半国をあたえられ、のち大坂の役の功で伊賀伊勢32万石となった。
元和2年(1616)没、75歳。








(Wikipedia)
藤堂高虎

時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 弘治2年1月6日(1556年2月16日)
死没 寛永7年10月5日(1630年11月9日)
改名 与吉(幼名)、高虎
主君 浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→津田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光
藩 伊予今治藩主→伊勢津藩主

藤堂 高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗
何度も主君を変えた戦国武将として知られる。
築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られる。
高虎の築城は、石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。







撮影日・2018年10月13日

 
 


坊ちゃん 


場所・愛媛県松山市   道後温泉


小説「坊ちゃん」で、夏目漱石は四国松山をさんざんコケにしたように書いているが、
それでもなぜか、松山の人はたいへん喜んでいる。
話の舞台になったのが嬉しいのだろう。





この像↑は道後温泉にある。

坊ちゃんは”温泉”と”遊郭の団子”(今は坊ちゃん団子と言う)が好きだった。








撮影日・2015年10月3日

 
 


津島町長・藤堂満義


場所・愛媛県宇和島市津島町岩松


終戦後の頃、小説「てんやわんや」によれば、
宇和島の街から岩松という町まで、バスで行くと何度も入江や峠を越えて2時間半かかったそうだ。
2009年、宇和島から岩松まで、自分の車で行くと20分とかからなかった。
(トンネルの高速道ができていた)
時間が1/10に短縮、これにはびっくりした。





(宇和島市のPH)
藤堂 満義 氏
(昭和60年10月12日贈号) 初代津島町長(3期12年)。
合併当初の津島町の基礎を固めた。津島中央病院建設、津島高校全日制昇格などに尽力した。
昭和43年 藍綬褒章
昭和52年 勲五等双光旭日章




かつて(年月不明)、サンデー毎日に次の一文が載った。

名物にうまい物あり”文六餅”

さる飯店で、角川書店から出した獅子文六作品集のお祝い会を開いた。
集まったのは徳川夢声、今日出海や書店関係十人あまり。

文六氏はしきりに、終戦直後疎開し「てんやわんや」の舞台になった四国を思い起こしていた。
文六氏の話によると、
宇和島近辺には「文豪獅子文六」が疎開したことを記念して「文六餅」という餅があるそうである。
つまり名物文六餅というわけだが作家の名前をそのままつけた名物は珍しいと夢声老も感心していたが、
それよりも感心させられるのは、文六氏自身の弁によれば
名物に珍しくうまいのだそうだ。


(岩松の文六餅のお店の看板より↑)



(岩松の町)




撮影日・2009年10月11日



小島惟謙

場所・愛媛県宇和島市


今も宇和島市民の誇り。

「大津事件」の大審院長。

結果は、ロシアとの関係悪化せず、欧米からは近代国家と認識され国威が高まった。











「その時歴史が動いた8」 NHK取材班  中央出版 2001年発行



いまから百年あまり前、

西洋近代国家の仲間入りをめざしていた日本に

ロシア皇太子ニコライがやってきた。

のちのニコライ二世、ロシア最後の皇帝である。

当時、ロシアは日本にとって大きな脅威だった。

明治24年(1891)5月11日、事件は起こった。

警備にあたっていた巡査・津田三蔵がニコライに斬りかかったのだ。

事件の対応をめぐり、日本は大きく揺れた。

ロシアとの戦争を避けるため、

犯人を死刑にしようとする伊藤博文と明治政府。

生まれたばかりの法制度を守ろうと、

死刑に反対する児島惟謙と裁判官たち。

多くの裁判官が政府の圧力に屈するなか、

法を守ることこそ裁判官の職務であると訴える児島の言葉が、

裁判官の心を揺さぶる。

明治24年5月27日、判決の日を迎えた。











 





「歴史誕生12」 NHK取材班 角川書店  平成3年発行



パニックは東北の山村まで広がり”国民総懺悔”の世論が形成されていった。



津田姓、三蔵名を禁止する

事件に対して謝罪しようという動きは東北の山村にも及んだ。

山形県金山町では、事件二日後に緊急村会議が召集され、条例が制定された。

一条 本村住民は津田の姓をつけてはならない。

二条 本村住民は三蔵の名をつけてはならない。



・・・



焦点となった犯人の処罰



司法省は、犯人は殺人を犯したわけではなく、傷つけただけなのだから暗殺未遂を適用するのが妥当であるという意見が示された。



政府としては何としても極刑にもちこみたい。

これに対して、政府に真っ向から反対したのが、現在の最高裁判所長官にあたる大審院長児島惟謙である。





・・・・・・・・・・・・



Wikipedia

児島 惟謙は、明治時代の日本の司法官、政治家。

大津事件の際には、大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き、「護法の神様」などと高く評価された。

後に貴族院議員、衆議院議員。





撮影日・2021.12.24

 


坊ちゃん 


場所・愛媛県松山市大街道 城山ロープウェイ乗り場








坊っちゃん

夏目漱石坊っちゃん団子、坊っちゃん列車、坊っちゃんスタジアム、坊っちゃん湯、坊っちゃん文学賞…松山には「坊っちゃん」と名前がつくものがたくさんあります。

もちろんこれは夏目漱石の小説『坊っちゃん』に由来します。
また松山での正岡子規との出会いは夏目漱石にとって人生の転機であり、この出会いなくしては文豪・夏目漱石は誕生しなかったのでは…
といわれています。

松山観光コンベンション協会


撮影日・2021.12.25



 
 











作成・2021年10月10日  追記・2022年1月12日