香川県 |
二宮金次郎 香川県仲多度郡多度津町高見島 金次郎さんやお大師さんの像は多すぎて原則載せていないが、代表としてもっとも印象深い金次郎像を一点載せる。 高見島の高台にある元学校の校庭にある金次郎像。 戦前や戦後、多くの児童の声が聞こえたであろうこの場所は、既に波の音と鳥の声しか聴こえなかった。 撮影日・2008年8月7日 |
三原と水原 場所・香川県高松市番町 中央公園 野球のライバル選手は数多くあったが、 極めつけのライバル、といえばこの二人になるだろう。 三原と水原。 戦前・戦中・戦後の数十年。 高校(高松中と高松商)もライバル。 大学(早稲田と慶応)もライバル。 選手、監督(主に巨人、また巨人vs西鉄)もライバル。 監督の三原はマジックと呼ばれた。 水原は3塁コーチボックスでの立ち姿がきれいだった。 こうゆう二人だから出身地の高松では、県庁・市役所前の中央公園の そのまた中央に銅像が並んで立つ。 (Wikipedia) 三原 脩 香川県仲多度郡神野村(現・まんのう町)出身。 選手としては、1934年に発足した大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)の契約第1号 監督としては、周囲の予想を超える選手起用・戦術で数々の名勝負を演出し 「三原魔術」と驚嘆され「魔術師」「知将」の異名をとった。 日本プロ野球史上、日本野球連盟、2リーグ分立後のセントラル及びパシフィック両リーグ加盟球団での日本選手権シリーズ(日本シリーズ) といった、3種類の優勝を経験した唯一の人物(セ・パ両リーグでの日本シリーズ優勝経験監督は、水原茂・広岡達朗がいる)。 監督としての3,248試合出場は日本プロ野球記録である。 水原茂 香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手) 監督・野球解説者・野球評論家。1955年から1959年の登録名は「水原 円裕(のぶしげ)」。 現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ、以下巨人)で活躍し、 引退後は巨人、東映フライヤーズ、中日ドラゴンズの監督を歴任した。 巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、 セントラル・パシフィック両リーグでチームを日本一に導いた(セ - 巨人、パ - 東映)。 NPB初のベストナイン(三塁手部門)も受賞している。 撮影日・2019年11月30日 |
菊池寛 場所・香川県高松市 中央公園 新田藤太郎 1956年 菊池寛の銅像は高松市の中心にある中央公園の、いちばんよい場所に建っている。 公園のすぐ近くに「菊池寛通り」があり、そこに代表作『父帰る』の像もある。 菊池寛 菊池寛氏は、わたしの社の初代社長である。 わたくしは、この人をはるかに尊敬していたので、文芸春秋に入社し、この人の強い影響を受けた。 菊池さんが昭和23年、急逝した時、たまたまその席に居合わせて、少数の御遺族と共に静かな臨終を見守ったのも、何か強い因縁を感じている。 若い時代に、こうした人の下で働いたということは、どのくらいしあわせであったか、このごろになって、しみじみと感じる。 「私の日常道徳」という小文がある。 大正15年に書いたものだから、先生が38歳の時の随感だが、今読んでみても実に立派である。 ---私は自分より富んでいる人からは、何でも欣んで貰うことにしている。 何の遠慮もなしに、御馳走になる。 総じて私は人が物を呉れるとき、遠慮しない。 貰うものは快く貰い、やる物は快くやりたい。 〇他人に御馳走になるときは出来るだけ沢山食べる。 そんな時、まずいものをおいしいという必要はないが、おいしいものは、明らかに口に出してそう言う。 〇人といっしょに物を食べた時、相手が自分よりよっぽど収入の少ない人であるときは、少し頑張っても此方が払う。 〇自分の悪評、悪い噂などを親切に伝えてくれるのは閉口だ。 自分が知ったがため、応急手当の出来る場合はともかく、それ以外は知らぬが仏でいたい。 お宅の応接間で、いろいろ面白いお話をうかがったが、一番印象が強いのは、敗戦後、先生が追放された直後のことである。 部屋の中は荒廃し、かつてあれほどにぎやかであった訪問客も一人もいない--そうした中で菊池さんは、 「ぼくは今度の戦争勃発を煽ったことはないが、 戦争が始まってしまえば、一国民として祖国の勝利を願い、そのように行動するのは、当然のことだし、それを今でも誇りと思っているね」 しかし、敗戦が、菊池さんに与えたショックは大きかった。 やがて文芸春秋社や大映の社長の椅子を去り、身辺の寂寥は、おおうべくもなかった。 「歴史好き」 池島信平 中公文庫 昭和58年発行 撮影日・調査中 |
西行 場所・香川県坂出市青海町 白峯寺 撮影日・2009年10月25日 |
作成・2021年10月10日 追記・2021年10月20日