銅像の人  香川県
 

三木武吉 

場所・香川県高松市  栗林公園


保守合同で有名な政治家。栗林公園に銅像が建っている。





(Wikipedia)

保守合同

1955年(昭和30年)4月13日、三木は保守政党の結集を呼びかける。
三木は、社会党再統一に危機を抱いていた。
また、この時期、医者から癌のため余命もって3年を宣告されていた。
三木は党内合意を取り付けに動くと同時に、自由党に工作を開始する。
5月15日、三木は自由党総務会長の大野伴睦と会談を持つ。
三木は浪花節と愛国の情をもって、巧みに大野をかき口説き、大野の賛成を得る。
岸・三木・石井・大野四者会談が持たれ公式に自由・民主両党間で保守合同に向けて動き出す。
これに対して民主党内では三木武夫、松村謙三らが保守二党論をもって反撃する。
最後に総裁に誰がつくか平行線をたどった。
結果、総裁を棚上げし、困難と思われた保守合同が成し遂げられ、日本初の統一保守党・自由民主党が結成された。
三木は、鳩山、緒方、大野とともに総裁代行委員に就任した(5ヵ月後、鳩山が自民党総裁に就任)。
1956年(昭和31年)4月から病床に臥すようになり、7月4日に東京・目黒の自邸で死去。享年71。








三木武吉

「昭和怪物伝」  大宅壮一著  角川文庫 昭和48年発行

三木武吉氏は明治17年、香川県高松市に生まれる。
早稲田大学の前身東京専門学校を卒業し、明治40年弁護士開業。
大正6年より衆議院議員に連続6選。
昭和14年報知新聞社社長。
昭和17年、21年の総選挙に香川県より当選したが追放となる。
昭和26年追放解除以来、
保守合同の立役者として活躍し、昭和31年没。


彼は終始鳩山をかついできたが、別に鳩山から恩恵をうけたわけでもなければ、
鳩山に心服しているわけでもない。
三木は政治的理想を実現する手段として鳩山を使っていたと思われるフジがある。

伝説めいた話もつたわる。
ある演説会場で、
「あなたは妾を5人もおもちだそうですが、指導的地位にあるものとしていいのですか」
これに対し、
「5人というのは間違いで、実は6人です。

吉田調伏や保守合同が、曲がりなりにも成功するにいたり、一時鳩山引退後の次期総裁までが、
彼の方にころがみそうな形勢になってきた。




撮影日・2015年11月28日





 


福田繁芳先生像 


場所・香川県観音寺市  琴弾公園




白砂青松の有明浜、砂絵「寛永通宝」。
春は「日本桜100選」の名所、四国霊場・観音寺と一帯化した公園。


その琴弾公園に銅像が立つ。




(Wikipedia)

福田 繁芳
1905年〜1977年2月12日
日本の政治家。自由民主党の衆議院議員。

1946年の第22回衆議院議員総選挙に立候補するが次点で落選。しかしその後三木武吉の公職追放により繰り上げ当選となる。
1951年10月5日、高松地方検察庁に観音寺競輪場誘致運動資金の一部を横領した容疑で逮捕される。
1961年3月、日興連汚職事件で福田に対して懲役1年の実刑判決が確定し、公民権停止となったため国会法の規定で自動的に失職。
賄賂罪の実刑判決が確定して国会議員が失職となったのは初めてであった。
1977年2月12日、急性肺炎のため東京都大田区の自宅で死去。71歳。











撮影日・2014年4月2日


 
 


一太郎やぁい 


場所・場所・香川県仲多度郡多度津町 桃陵公園



”一太郎やlぁい”

明治4年に県ごとに士族軍隊がおかれ、
高松営所は大阪鎮台の第二分営として高松城内に設置された。
そののち明治8年広島第五師団にぞくした丸亀歩兵第12聯隊が丸亀城内で誕生した。

日清戦争後、四国四県を一管区として師団がおかれることになった。
高松市郊外が候補地にあげられたが、兵隊がいると風紀上悪影響をおよぼすという理由で、住民が反対した。
仲多度郡善通寺村に設置が決まった。
明治31年第11師団が誕生し、初代師団長に乃木希典がなった。

明治37・8年の日露戦争には、四国の部隊は乃木大将の第三軍にしたがって旅順攻撃に参加し、ひじょうな苦戦をした。
「百人ゆけば百人、千人ゆけば千人死んだ」と書かれるほどの激戦であったが、
やがて3月10日歴史的大勝利をおさめ、帰国の途につき多度津に上陸後、丸亀に凱旋した。







この日露戦争における”一太郎やーい”の軍国美談が国定教科書の尋常小学校国語読本に掲載され、日本中に知られた。
主人公は陸軍歩兵一等卒岡田梶太郎(通称一太郎)であった。

日露戦争が激しくなり、丸亀聯隊の将兵たちは旅順へ向かうべき、多度津港で軍用船に乗った。
一太郎の姿もそのなかにあった。
一太郎の母カメ女は、三豊郡豊田村(観音寺市)から腰弁当とワラジばき姿で、わが子一太郎を見送ろうと、
多度津へ馳せつけた。

だが一太郎の好きな氷砂糖を買いにいったため出帆に間に合わず、船はすでに岸をはなれていた。
そこで大声で「一太郎やーい、天子様に忠義をすくすのだぞ、わかったら鉄砲をあげろ」と叫んだ。


軍国の母の美談として、戦時中は出征する若者たちを奮起させたが、
戦後、鉄筋コンクリート製のカメ女の像が再建され、多度津港を見おろす桃陵公園にたっている。


「香川県の歴史」  市原・山本共著 山川出版社 昭和46年発行









撮影日・2014年4月2日

 
 


 


場所・香川県高松市女木島  女木港防波堤













撮影日・xx年xx月xx日(調査中)

  




 
 

野網和三郎


場所・香川県東かがわ市引田  安戸池


内湾でのハマチ養殖を始めた人。
地元漁業者では大功労者、偉人。






【引田業業協同組合】より

香川県の引田では昭和3年、内湾を堤で仕切った安戸池において、
野網和三郎氏が世界で初めてブリ(ハマチ)を養殖することに成功しました。
引田漁業協同組合では、その技と経験を活かして、天然に近い 良い
環境と独特の手法で育て上げたブランド魚「ひけた鰤(ブリ)」を皆様に
お届けします。


養殖業の始まり
引田漁業協同組合における魚類養殖の歴史は、
1928年(昭和3年)に野網和三郎(ワーサン:和三郎の愛称)が 安戸池でハマチ養殖に成功したときから始まります。
地元引田の網元の3男であった和三郎は、当時の漁師の厳しい生活とその将来について、強い危機感を持っていました。
当時、瀬戸内海の漁業は、昔ながらの漁法でタイやサワラを獲っていましたが、大きく漁獲が伸びることはなく、頭打ちの状況でした。
そのため、香川県から海外への出漁が盛んになりつつありましたが、厳しい気象条件などによる遭難や不漁が多く、
事業の失敗により 網元から雇われ漁民に転落する人が増え、下層漁民が増加しているような時勢でした。
和三郎は、このような状況を肌で感じて育ち、漁民の窮状を何とかしたいという思いから水産学校に学び、当時の先端の学問を修めました。
卒業後は、引田に戻り、早速学んだことを生かすため、安戸池を使った魚類養殖試験を開始。
父、佐吉の全面的な協力のもと、 試験開始後、わずか2年目にして、養殖に成功しました。
これが、日本における海面での魚類養殖の最初の成功事例となったのです。


養殖業の進展
安戸池の養殖事業は観光化し、その盛況ぶりは全国の注目を集めました。
一方、県内では、戦後昭和25年までは、養殖施設として築堤式(固定式施設)が主流であったため、 大きな資本が必要で、経営体は僅かでした。
しかし、この年化学繊維の魚網が発明され、網仕切り式施設で養殖できるようになると、県内でも 養殖事業に着手する人が増え始めました。
その後、昭和30年代になって、小資本・少人数での経営が可能な、小割生簀が普及すると、 急激に養殖が盛んになり、
香川県を含めた西日本各地で養殖が広く行われるようになりました。
和三郎は、養殖事業から離れた後は、県の水産業関係団体や海区漁業調整委員などの要職を歴任し、
「養魚秘録海を拓く安戸池」を出版した昭和44年秋、病没しました。
彼は、自分の生涯をかけた養殖業の発展を目の当たりにすることができたことと思います。






(安戸池)



撮影日・2013年9月17日














作成・2021年10月10日  追記・2021年10月20日