銅像の人  山口県
 

源義経対平知盛像 

場所・山口県下関市みもすそ川町   みもすそ川公園
建立・2004年(平成16年)



敗戦を悟った平知盛が、碇の綱を体に巻きつけて入水しようとする「碇潜」(いかりかずき)と、

敵の攻撃を華麗にかわす義経の「八艘飛び」のシーン。

宙に舞う義経の甲冑や、怒れる知盛の表情など、見どころ満載な銅像である。

「日本の銅像完全名鑑」






 
平知盛
見るべきほどのことは見つ


午後3時、関門海峡の潮の流れが変わった。
朝のうち、平家方有利のちに展開していた戦いは、これを境に一変する。
潮に乗って疾風のように寄せる源氏の白旗。
今や平家の敗色は明らかであった。

新中納言知盛の卿、小舟に乗って御所の御船に参り、
「世のな中、今はかうと見えて候。
見苦しからむ物ども、みな海へ入れさせたまへ」とて、
艫(ともへ)に走り回り、掃いたり、拭うたり、塵拾ひ、手づから掃除せられけり。
女房たち、
「中納言殿、戦はいかにやいかに」と口々に問ひたまえば、
「珍しき東男をこそ、御覧ぜられ候はむずらめ」とて、からからと笑ひたまえば、
「何でふのただいまの戯れぞや」とて、声々にをめき叫びたまひけり。

・・・

新中納言、
「見るべきほどのことは見つ、今は自害せむ」とて、(略)
中納言に鎧二領着せ奉り、がわ身も鎧二領着て、手を取り組んで、海へぞ入りにける。



『平家物語』巻11 先帝身投


宇治橋の合戦で、『平家物語』にはなばなしく登場した平知盛の事績は、壇ノ浦までまずか5年間にすぎない。
源平興亡の5年間を激しく生き抜いた知盛、
そして「見るべきほどのことは見つ」と叫び、関門のうず潮にのみこまれていった知盛、
この時、新中納言知盛、34歳であった。

「日本史探訪6」角川書店編 角川文庫  昭和59年発行 






平家滅亡

一ノ谷、屋島と、源氏に敗れた平家は、本州の最西端長門へ本拠を移した。
文治元年(1185)3月23日、長門の満珠島、干珠島の周辺は、源氏の水軍で埋まっていた。

平家は正面から戦いをいどむべく、本拠地彦島を捨てて、全船団を田ノ浦へと進めた。
源氏の軍までわずか4kmである。
安徳天皇、建礼門院はじめ、一門の女房たちが乗った唐船も、戦場へと向かった。
平家のこの戦いにかける覚悟が知られる。

『平家物語』によれば、平家随一の武将能登守教経は,数多の敵を射落とし、
義経をあと一歩まで追いつめたが逃がし、今は最後と、
源氏の兵を小わきに身を海に躍らせた。

教経に先だち、清盛の妻二位尼も、これまでと、
幼い帝を抱いて身を投じる。
建礼門院も、わが子の最後を見て海中へ。
そして多くの女房、武将が次々と海中に沈んでいった。
清盛の四男知盛は、すべての戦況を見定めたのち、鎧二領を重石がわりに、海に沈んだ。
ながて主を失った舟ばかりが、波に漂い、流れていったという。


平家滅亡のあとも、源氏の落ち武者狩りはきびしかった。
それとともに、平家ゆかりの人々は山深く散っていった。
今も平家部落を名のる土地は多い。


「日本史探訪6」角川書店編 角川文庫  昭和59年発行 







≪壇ノ浦
源平両軍は壇ノ浦に集結し、最後の決戦に臨む。
『吾妻鏡』では源氏840余艘、平家500余艘。
『平家物語』は、源氏3.000余艘、平家1.000余艘に唐船少々としている。
戦闘開始は午前6時、平家側から。
午前8時半ごろ潮は東に流れ始めた。
午前11時半過ぎ、潮はもっとも早くなった。
源氏は追われる身となって後退の一途をたどる。
もはや勝敗は決するかに思われたが、
潮の流れは逆流をはじめたのである。
午後3時半ごろであった。≫

「日本史探訪6」角川書店編 角川文庫  昭和59年発行 










「日本史探訪6」角川書店編 角川文庫  昭和59年発行 
司馬遼太郎

源義経


司馬
義経というのは、まったく史上まれにみる軍事的天才です。
たとえば、
馬に乗った人間--つまり騎兵を騎兵として使った、世界史上、最初の人物といっていいですね。

司馬
それまでの、普通、偉い人というのは階級や官位が高いことだったんです。
ところがそのときの義経というのは、官位はなしでしょ。源九郎というだけです。
それがある朝、目がさめれば、源義経というのは京都じゅうの子供まで知っているというような状態になる。


「おごれる人も久しからず、
ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者もつひには滅びぬ、
ひとへに風の前の塵に同じ。」
『平家物語』

司馬
義経は、ついには頼朝に追われ、奥州で最期を遂げるわけですが、
この悲劇というのは、結局、義経みずからが招いた罪だということも言えますね。








撮影日・2015年2月20日


 


山県有朋 



場所・萩市  中央公園
北村西望 1920年参謀本部(東京)  1992年現在地に移設



山県有朋  

天保9年(1838)〜大正11年(1922)
もと長州藩士。
西南戦争を鎮定。
明治の軍制の確立に努める。
22年、31年首相。
長州軍閥の長老として強大な実力をふるった。
その像も東京の参謀本部にあったが、撤去され上野に放置、
昭和37年に北村西望のアトリエ近くの井の頭自然文化園に建立されたが、
平成4年出身地である萩市に移設された。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行










「首相列伝」  学習研究社  2003年発行

山県は、槍持ち中間の子に生まれ、幼少のころの夢が槍術師範になることだったから、
さして期待されなかった。
しかし、山県の85年の生涯は、不思議と強運に恵まれた。

四国連合艦隊との戦闘では、水をくもうと腰をかがめた時、一弾がはずれた。
高杉の騎兵隊で、勝利を得ることができた。
維新後政商との汚い関係が明らかになる直前、相手が自殺した。
木戸孝允が病死した。
大村益次郎が暗殺、前原一誠が引退、で短時日のうちにナンバーワンになった。


山県は黒田清輝のあと、明治22年12月に首相となり、明治24年4月まで在任した。
この間第一回の総選挙、ついで第一回の議会が開かれた。
最大の政治テーマは条約改正だった。成果はなかった。

明治31年11月に第二次内閣を組織し、明治33年10月まで在任。
陸海軍の大臣は大将か中将に限るという官制を作って、軍部の気に入らない内閣を倒閣できる道を開いた。









宮中某重大事件


大正8年12月議会に天皇の出席がなく、天皇の病は重いことがわかった。
国民の間にもさまざまな噂が流れた。
国民の関心と期待は皇太子裕仁親王にむけられた。
その皇太子妃には、すでに久邇宮良子女王が内定していた。

世上にまた暗いうわさが流れた。
これは「宮中某重大事件」といわれ、
良子女王の母方に色盲の系統があるので、
天皇家の神聖を護るためには婚約を破棄すべしとの運動が、
長州閥の元老、枢密院議長山県有朋を中心に進められた。
宮相が「何ら変更なし」と発表して辞任、
山県はこの事件でかつてない政治的打撃を受けた。

「教養人の日本史5」  藤井松一  現代教養文庫  昭和42年発行










撮影日・2011年10月26日

 
 


佐々木小次郎 


場所・山口県岩国市 吉香公園



櫂の木剣が、ぶんと上がったのである。
六尺近い武蔵の体が、地を離れると、その姿は宙のものだった。
巌流は、頭上の長剣で、大きく宙を斬った。・・・然し、
その瞬間に、巌流の頭蓋は、櫂の木剣の下に、小砂利のように砕けていた。

吉川英治「宮本武蔵」








巌流ゆかりの柳

佐々木巌流小次郎は宮本武蔵との勝負に敗れましたが、
小次郎の『つばめ返し』の剣法は天下無双であったということです。
吉川英治氏は小説『宮本武蔵』のなかで、
岩国で生まれた小次郎は、母から家伝の長刀(一名物干し竿)を授かり、
この辺りの柳とつばめを相手に独りで工夫し、努力を重ね、
遂に『つばめ返しの術を編み出したと記しています。


(説明版)


↓この錦帯橋北詰にある説明看板は「岩国市」とか記名無しで、名無しの権兵衛の説明文。
巌流島での決闘以外、小次郎に関する信憑性のある資料は少ないようだ。
















撮影日・2009年5月23日

 
 


xxxx像


場所・山口県xx市xx町










撮影日・xx年xx月xx日

  




 
 













作成・2021年10月10日 追記・2021年10月24日