広島県(広島市) |
加藤友三郎 場所・広島県広島市中区基町 中央公園 「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書 1995年発行 ワシントン会議 海軍の実力者加藤友三郎は、 日本の国力が米英両国に比べて段違いに劣っていることを考慮し、 1921年12月11日、太平洋の防備を現状のまま維持することを前提として5・5・3の比率を受諾することを決意した。 全権団随員の中には、加藤寛治中将をはじめ反対するものがおり、国内でも強硬論が強かったので、 加藤主席全権は、次官あてに口述をした。 「国防は軍人の専有物に非ず。 戦争もまた軍人のみにてなしうべきものに非ず。 国家総動員してこれに当たらざれば、目的を達しがたし。 ・・・・・ 平たくいえば、 金がなければ、戦争ができぬということなり」 加藤海軍大臣はさすがに見識が高い。 日露戦争に勝ってから日本国民は増長し、 第1次大戦で火事場泥棒のような手段で国威を発揚した。 そういう雰囲気の中にあって、加藤海軍大臣のような政治・経済のわかる立派な軍人が存したことは賞賛に値する。 中公新書「軍国日本の興亡」 猪木正道 1995年発行 (1914年) ヨーロッパ列強が世界大戦に突入した時、大隈内閣の加藤高明外相は、日英同盟を口実にドイツと戦争する心組だった。 英国大使より援助を求められ、渡りに船と喜び、翌8月7日「英国の請求に応じ、ドイツと開戦する」と英国に申し入れた。 しかし英国は8月11日、日本の申し入れを正式に謝絶した。 日本は対独戦争の方針を改めず、8月23日最後通牒を発した。 8月27日久留米の第18師団が青島攻略を命ぜられた。 日本軍が青島へ進撃する際、山東鉄道を押収したので、中国は日本に抗議した。 日本は中国に対し翌年1月「21ヶ条の要求」をつきつけた。 (1917年) 11月、ソビエト政府の成立を宣言。翌年3月ドイツと単独講和を結ぶ。 ソビエトは首都ペトログラードで勝利したのであって、ロシア全土を制圧したのではなかった。 危険な共産党政権を双葉のうちに打倒しようと、英国、フランスなどは軍隊を派遣して武力干渉を開始した。 ロシア国内では反革命派もいたるところで立ち上がり、ロシアは1921年末まで、外国からの武力干渉と内乱に悩まされた。 (1918年) 英仏両国は日本に対してしきりにシベリアへの出兵を要請してきた。 シベリアで苦戦しているチェコ軍を救援するためである。 寺内首相は元老山県有朋に警告されて出兵に賛成しなかった。 山県は4月24日に次の警告を発している。 「今日本がシベリアに出兵して、はたして勝利を達しうる成算ありや。 戦線は拡張し、深く露国に侵入する必要を感ずる。 現在にしても、米穀の不足を感じ、非常の高値を出している。 これが出兵などという場合になりて、はたして食物の供給に差し支えなきや」 元老が明治維新以来の苦しい経験により、対外関係ではきわめて慎重であったのに対して、新世代に属する外相は概して強硬であった。 7月、米国は日本に、チェコ軍救援のため共同出兵を提案した。 山県や原敬のような出兵反対論者も、共同ならば異存はないということになった。 8月、日・米・加・伊・英が派遣した。 翌1920年9月まで、チェコ軍救援は達成された。 (1920年) 1月米国は撤兵を通告してきた。 日本は、撤兵の機会を逸し、パルチザンと呼ばれた現地民のゲリラ活動に悩まされた。 (1921年) 5月25日〜27日、尼港虐殺事件が起こっている。 (1922年) 6月12日、加藤友三郎内閣が成立して撤兵に決し、10月完全に撤兵することができた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ シベリア出兵によって、多い時には7万3000の大軍がシベリアに駐屯し、10億の戦費も無駄使いに終わった。 日本以外にもソビエト・ロシアに武力干渉した国は少なくないが、一番長く居座って、国際的に悪評を受けたのは日本であった。 加藤友三郎 元帥・海軍大将・首相 大正4年(1915)、第2次大隈内閣の海相に就任してから、4代の内閣で7年10ヶ月の長きに及び海相を務め、 その間才知にたけた加藤は、能力を遺憾なく発揮した。 第1次大戦では英国の要請で特務艦隊を地中海に派遣、 ドイツ潜水艦「Uボート」と戦い「地中海の守護神」と賞賛された。 大正10年(1921)ワシントン軍縮会議に日本首席全権として参加。 英米日の主力艦の比率が5:5:3という米国の提案に対し、従来の方針である対米7割にこだわらず受け入れた。 大正11年(1922)6月内閣総理大臣に就任したが、海相を兼務しワシントン条約に従って大幅に軍縮を行った。 首相在任中の大正12年、直腸ガンで死去。 「大正クロニクル」 世界文化社 2012年発行 撮影日・2017年3月18日 |
池田勇人 場所・広島県広島市中区上八丁堀 戦後の首相の中でも、もっとも庶民性や信頼感があるように見える首相だった。 人気度も高かった、または野党からも敵が少ない政治家だった。 国内が安定し、経済成長いっぽんの内閣だったが、いい時代に首相をつとめ、 最期は東京オリンピックの成功を見ながら政界を去った。 幸運な人生の人であり、国民も経済成長の恩恵を受けた。 池田勇人 忠海中学→5高→京都帝大→大蔵省→大蔵省事務次官(昭和22年)→衆院議員(昭和24〜)。 昭和24年吉田内閣の蔵相に抜擢された。 「中小企業の一部倒産もやむをえない」(昭和25年) 「貧乏人は麦を食え」(昭和25年)と発言。 昭和29年自由党幹事長。 昭和31年、蔵相。 昭和34年、通産相。 昭和35年、5月安保騒動。 昭和35年、首相。 昭和35年9月、 「所得倍増計画」が閣議決定。 月給を2倍にする。 農業人口を農村から都市に移す。 農業の近代化で、農村部も所得倍増。 骨子は、年平均7.296%の成長をつづければ10年間で所得は2倍になる。 政府の積極的な経済政策は、すでに軌道に乗っていた日本経済の高度成長をいっそう加速させ、 昭和48年にオイルショックが起こるまで年平均10%以上の成長を持続させた。 池田の政治路線は経済中心主義を貫くことであった。 憲法問題、イデオロギーがらみの問題はきわめて慎重にあつかった。 「寛容と忍耐」と呼んだ。 ・・・・ 経済中心主義の政治路線とは、 要するに経済的利益の配分によって国民の支持を調達することであった。 利益配分の手法は保守政党の主要な集票手段となったのである。 選挙民への直接的な利益還元によって、 あるいは直接的な便宜の供与(就職の斡旋、結婚の仲人、入学の世話)によって 票を集めることが普通になってゆく、 そのための組織が政治家の個人後援会に他ならない。 後援会組織は、昭和33年選挙ぐらいから目立つようになったといわれるが、 1960年代に急速に拡大していくのであった。 ・・・・ 昭和39年 7月10日、辛うじて3選。 8月末、喉頭ガンで入院。 10月10日、東京オリンピック開会式出席。 10月25日、退陣を表明。 昭和40年 8月13日、ガンのため66歳で世を去る。 池田は庶民感覚にあふれた政治家であり、 その庶民性において民主主義のリーダーとしての適性を備えていたといえよう。 1950年代の池田は度重なる放言で有名であり、ときには閣僚の地位を失った。 しかし、その放言も庶民蔑視によるよりは、庶民としてのホンネを口走ったとみることができるように思われる。 「実録首相列伝」 学習研究社 2003年発行 撮影日・2013年5月3日 |
xxx像 場所・広島市xx町 撮影日・xxxx |
xxx像 場所・広島市xx町 撮影日・xx年xx月xx日 |
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作成・2021年10月10日 追記・2021年10月13日