銅像の人  広島県(安芸)
 

平清盛(日招像) 

場所・広島県呉市警固屋8丁目  音戸の瀬戸公園(高烏台)






平清盛

清盛は、戦前の教科書によって、権勢を誇る悪役として知られていた。

ところが戦後、この清盛の衣の下に、
国際感覚に富んだ新しい人物像が再発見された。

音戸の瀬戸を修築し、船の通行を可能にしたのは、若き日の安芸守清盛である。
遣唐使を廃止して、閉鎖的な国粋主義が横行していた時代に、
清盛は、西に大宰府をおさえ、東に神戸港を築いた。
音戸はそれを結ぶ海路である。
雄大な彼の構造にあったのは中国貿易だった。

【君よ今昔の感如何】
と語りかけているのが、『新・平家物語』の作者、吉川英治の文学碑である。


「日本史探訪・源平の乱」  角川文庫 昭和59年発行










撮影日・2021年4月26日


 


毛利元就 


場所・広島県安芸高田市吉田  「吉田郡山城」


毛利元就の権謀術数

安芸の国・吉田荘という小さな領国の国人の家に生まれ、
しかも元就は毛利家の中でも次男坊であった。
たまたま兄が死に、その嫡男も夭逝して、
彼はお家騒動のまっただなかで、このささやかな家督を継ぐことになった。

西には大内氏、山陰には尼子氏という大勢力をひかえ、
ともかく生きるために隣接の脅威を除かねばならなず、
吉川、小早川両家をあいてに権謀術数を振るい、それぞれに
元春、隆景という自分の息子を養子として入れた。
さらに嫡男の隆元には大内氏から嫁を迎え、
この三人の息子のあいだに強力な同盟関係を結ばせた。

一本の矢は折れるが三本の矢は折れない、
という有名な元就の教訓は、
こうした現実的な合従連衡政策の表現だったのである。


「室町記」 山崎正和  講談社文庫  昭和60年発行








厳島の合戦

合戦の戦術だけでなく、むしろ謀略工作のたくみさにおいて特に傑出しているのは、東の北条早雲に配するに
西の毛利元就であろう。

天文20年周防・長門・豊前の太守大内隆義が、譜代の重臣陶晴賢に殺されると、
元就は表面それに服しながら、ひたすら実力の蓄積につとめていた。
はっきりと敵対を示したのはその3年後である。

毛利軍の兵力わずか4千、陶軍は2万の大軍を擁していた。
広治元年(1555)9月30日夜、風雨を衝いて奇襲上陸した。
たちまち陶軍は潰走、晴賢は自刃して果てた。
厳島大勝の勢いに乗じて、元就は大内善長を攻めかれを自刃させた。
こうして西中国は元就の手中におちたのである。

元就は75年の生涯で、二百数十回の合戦をして、そのほとんどに勝ったという。
まさしく”稀代の謀将”の名にふさわしい男といえよう。

文芸春秋デラックス8月号「戦国日本合戦譚」 文芸春秋 昭和49年発行







安芸高田市のHP

三矢の訓 
百万一心
「全国的に有名なものは?」と安芸高田市民にたずねると、おそらくこう答えるだろう。
「毛利元就」と。
戦国時代、中国地方を1つにまとめたのは、毛利元就だった。
元就がその生涯を過ごした安芸高田市には、毛利氏ゆかりの史跡が数多く残されており、
戦国時代の足跡を辿ることができる。
「3本の矢を重ねることで折れにくくなる」と息子たちに協力の大切さを教えた「三本の訓」、
「百万の人が心を一つに」、また一日一力一心「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」と一致団結の大切さを伝えた「百万一心」。
元就の訓えは、市民の心の中で生き続ける。

毛利元就
「戦国の雄」とたたえられた戦国の武将です。
明応6年(1497年)、安芸国吉田郡郡山城(現在の安芸高田市吉田町)に生まれ、
75歳で病死するまで200数十回におよぶ合戦をくぐりぬけ、毛利を西国随一の太守にしました。





撮影日・2013年5月6日

 
 


阿久利姫 


場所・広島県三次市 尾関山公園

阿久利姫
三次藩の藩祖・浅野長治の娘・阿久利姫は赤穂藩主・浅野長矩に嫁いだ。
江戸城松の廊下で刃傷沙汰の結果、長矩は切腹、赤穂藩は改易となった。

長矩と阿久利姫の縁組は、姫がまだ生まれて間もない頃から進められ、長矩が17歳、姫が10歳の祝言があげられた。
長矩が切腹後、阿久利姫は落飾して「瑤泉院」と称し、1714年45歳で逝去するまで夫の菩提を弔ったという。

「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行







妻たちの赤穂事件

赤穂浪士の物語は、日本男子にとって、一つの美学なのであろう。
”男泣かせ”の要素に満ち満ちている。

初志を貫く清々しさは心うつ。
大義に命をかける男たち、
むくわれぬ愛に身を捧げる女、
共に崇高な精神である。
うっとりと酔い痴れ高い観劇料を払うのも、むべなるかな。


瑤泉院は、幕府より縁組の許可がおりるのは長矩9歳、阿久里2歳。
3年後、長矩の屋敷に引越す。
長矩17歳、阿久里10歳で結婚。
長矩自刃35歳、阿久里28歳。ただちに剃髪。

夫人は一室に閉じこもり、夫の冥福を祈ったと伝えられる。
長矩自刃後14年目、彼女はその生涯を終えた。41歳であった。


「歴史読本 昭和56年12月号」  新人物往来社  昭和56年発行





撮影日・2019年11月20日




 





観音像 


場所・呉市蒲刈町   上蒲刈島





 








撮影日・2009年4月3日


 
 
 











作成・2021年10月10日 追記・2021年10月14日