銅像の人  広島県(尾道市)
 

大湊和七像  

場所・広島県尾道市長江 御袖天満宮参道


力石は尾道や鞆や笠岡や寄島で見たが、たぶん多くの湊に残っているのだろう。

”大湊和七”は明治初期の人で、力自慢で有名な人。





(Wikipedia)

力石

石の形は表面が滑らかな楕円形が多い。
ほとんどの力石は60キログラムより重い。米俵より軽くてはわざわざ石を用意する意味がないという事であるらしい。
上限は様々で、中には300キロに達するものもある。
山や川原で手ごろな大きさの石を見つけて村に持ち帰り、力石とした。
重さが異なる石を複数用意することが多かった。
置き場所は神社や寺院、空き地、道端、民家の庭など様々であったが、若者が集まるのに都合が良い場所であった。

石に文字を刻むことも盛んに行われた。
「力石」という普通名詞としての名のほか、石の「固有名」、持ち上げた人の名と年月日。
しかし大半は無銘で、ただの大きな石。


力持ち・力試し

力石を持ち上げることを、力持ち、力試し、石抱え、担ぎ上げ、盤持ち(ばんもち)などという。
典型的には石を抱えて持ち上げる。
持ち上げ方は、
胸まで、肩まで、頭上まで、体に付けずに、など様々である。
また持ち上げてから担いで歩いたり、体の周りを回したりすることもある。
石に縄をかけて持ちやすくしたり、非常に重いものでは、石が地面を離れればよしとしたり、倒れている石を引き起こせば良いとするなど、
石の重さと個人の体力に応じて様々な条件と目標があった。

力試しに挑戦するのは主に村の若い男達であったが、
中高年の男達が加わる事も多かった。
武道を習うのが一般的でない村落のような環境では、格闘能力の優劣に繋がると見なされた。
中高年の男性が強い力を披露できることは、若者組の増長を抑える面でも重要だった。
娯楽が少ない環境では、力試しは若者達のスポーツの一種であった。
通過儀礼的に力石を持ち上げられると一人前とみなされた村もある。
力試しの位置付けもまた多様である。

米問屋では働く若者を採用する時に力石を用いた。





岡山県総社市の総社宮の力持ち競争

(総社宮のHP)

力石のルール
石は重さの違う半貫(1.9キロ)から横綱力石(180キロ)の23種類があり、地上10センチ以上の高さで10秒間持ちこたえると成功。
自分が持てると思う石から始め、26貫(97.5キロ)を成功すると決勝に進出できる。
決勝は30貫(112キロ)以上の石8種類のうち、審判の指定する石に順次挑み、最後は横綱力石を持ち上げている時間で優勝を決める。



岡山県笠岡市の力石

(「笠岡の文化財」より)

笠岡市立郷土館の前庭に16個の力石が、文化財に指定されている。
江戸時代、寄港した帆船に物資を船積み・荷揚げする浜仲仕が、この石をかつぐことで体と精神を鍛え、力を試し、給金などを決めていたという。
大正末期まで、笠岡港の浜仲仕は東浜組と西浜組の2つのグループに分れていた。
最も重い力石は200kg以上の重さがあり、持ち上げた人の名前や江戸時代の年号などが刻まれている。




港の沖仲仕というイメージを持っていたが、
港以外にもあり、多くの意味合いがあり、ところにより採用・給金を決められていたようだ。



撮影日・2013年4月12日




 


林芙美子像 


場所・広島県尾道市



尾道は何度行っても飽きない街だ。
海と坂道と船とお寺、千光寺山と向島、そんなものが同居して魅力が尽きない。
街角や海辺の通りには、多くの彫刻作品が並んでいる。
その中に、別格の雰囲気で林芙美子の銅像が建っている。

戦前から人気作家で、日中戦争では”芙美子さん、武漢一番乗り”と従軍作家で戦地に派遣されている。

戦後はいろんな作品が芝居や映画化され、名が新聞や女性週刊誌によく掲載されていた。
中でも有名だったのが森光子の舞台「放浪記」。





有名な作家・林芙美子だが、未だに一冊の本も読んだことがない。
読まず嫌いなのか?
どうも女性が好む小説で、男性むきでないような思いこみをしている。

しかし、この言葉だけはよく知っている。

花の命は短くて苦しき事のみ多かりき

花の命が短いのはわかるが、苦しきことのみの部分は辛い。







林芙美子

山口県下関生まれ。
九州から山陽地方を転々とし、大正11年上京。
女工・女給をしながら文学に親しみ、昭和3年『放浪記』を発表。
庶民の哀楽を描き人生派といわれた。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行




撮影日・2016年7月30日


 
 


西郷四郎 


場所・広島県尾道市東久保町


戊辰戦争の若松での市街戦では「白虎隊」が有名なため、その陰に隠れた感があるけれど
福島県では並んで有名なのが会津藩家老・西郷頼母の一家自刃。その数21名。
飯盛山の白虎隊より1名多い。

その西郷家の養子が、後の”姿三四郎”のモデルとなった柔術家・西郷四郎。
尾道の千光寺から浄土寺へのモデルコース脇に銅像がある。

なぜ尾道に西郷四郎の銅像が建つのだろう?
銅像の隣に説明看板が建っている。






西郷四郎先生は日本柔道界の奇才で、加納治五郎師範が講道館を創設した頃、
それを助けて日本柔道を大成した人です。
小柄な体躯でしたが、その特技「山嵐」の大業は天下無敵でありました。
小説・映画で有名な「姿三四郎」は先生がモデルでした。
大正九年に病気療養のため吉祥坊(現在は廃寺)に仮寓し養生につとめていましたが、
大正11年12月23日57才で亡くなりました。

昭和46年晩秋
西郷四郎先生50回忌追悼法要委員会



「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行


四郎は153cm、53kgほどの小兵であったが、自ら編み出した大技「山嵐」と得意とする天才肌の柔道家であった。
明治19年に開催された第二回警視庁武術大会で古流柔術の達人・照島太郎を山嵐で下し、発足間もない講道館の名を全国に知らしめた。

加納から信頼され「講道館四天王」と呼ばれた四郎だったが、明治22年突然講道館を出奔。
長崎に移り新聞創刊に参加。
日露戦争前後には大陸に渡り、活動家として辛亥革命にも関わったという。

狭い柔道界に収まることができなかった四郎は、大陸問題の活動家として後半生を過ごし、
大正11年その波乱万丈の人生を妻の郷里である尾道の寺・吉祥坊で静かに閉じたのである。



撮影日・2008年12月10日



 
 
 
xxx像 


場所・尾道市xx町











撮影日・xx年xx月xx日


 











作成・2021年10月10日  追記・2021年10月14日