広島県(福山市) |
楠木正成騎馬像 場所・福山市今津町 高諸神社 天皇家の大忠臣といっても、それは敗者の南朝天皇への忠臣であって、 北朝側から見れば逆臣だった楠木正成。 逆臣ではあったが、明治政府は「お国のために死ぬ」という理想の人物に仕立て、教科書に、読み物に、歌に いいように利用した。 備陽史探訪の会 「備陽史探訪:178号」 高諸神社の境内にセメント製の「楠木正成騎馬武者像」がある。 これは戦前今津小学校にあったもので戦後この場所に移された。 当時は奉安殿(昭和十年落成)の横に建立されていたもので銅像であった。 この楠木正成の銅像は神戸に在住した今津出身者二人による寄附である。 上記によると、奉安殿の横に銅像で建立されたが戦時中に供出した。 すぐに代わりにコンクリートで再建。 終戦後、学校から撤去。 たぶんその数年後に、この場所にもってきた。 この場所は、「高諸神社」で、大きな”沼隈郡郷社”という記念碑が置かれている神社。 笠岡市域では笠岡男子校に大楠公、笠岡女子校に楠公母子の像があった。 その場所に行っても跡形はないし、 戦後の処置についても記されたものがない。どこに行ったのだろう? 撮影日・2013年1月7日 |
浜子像 場所・広島県福山市松永町 JR松永駅前 入浜式塩田は昭和30年頃まで、およそ300年間つづいた。 寄島塩田では、↓下記だが、松永塩田もほぼ同じだったと思える。 塩田で働いた人たちの労働は厳しかった。 天候が相手で、やけつく夏も、凍りつく冬も、盆も正月もない。 雨さえ降らねば朝5時から晩の6時まで、1日6回の飯を食べるきつい仕事であった。 塩田は1町5反、2町を短冊型に区画し、これを1塩戸とし経営された。 塩戸毎に 棟梁(2交代で塩を焚く、夜勤を夜釜という) 上浜子(ばんこ)浜子の頭 浜子 1戸5〜6人。作業の中枢となって晴雨にかかわらず出勤する。 きっぷ 女や子供・老人で寄せ子といって浜持ち作業の日だけ出勤する。 計約10人くらい。 「寄島風土記」昭和61年 寄島町発行 砂を沼井にすくいこみをするのが、特に 重労働中の重労働であったそうだ。 「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行 広島の製塩業 近世の製塩業は17世紀半ばに瀬戸内海沿岸部で入浜式塩田が開発されて以来、一気に活気づいた。 以前のように人力ではなく、潮の干満を利用するという当時としては画期的な手法の塩田だった。 これにより塩田の経営の効率化に成功し、生産性が向上したのである。 県内の製塩業にこの新手法が導入されたのは、慶安3年(1650)からだ。 福山藩は万治元年(1658)に赤穂から技術者を招いて、沼隈郡松永に入浜式塩田を完成させている。 この時、松永の入浜式塩田を主導した藩士・本荘重政は、その後の松永の発展の基礎を築いたから「松永の父」と呼ばれるようになったという。 作られた塩は海運を通じて日本中に運ばれるようになり、芸備地方は江戸時代を通じて国内有数の塩の一大産地として知られるようになった。 撮影日・2013年1月7日 |
本庄重政 場所・福山市松永町 JR松永駅前 制作・ 本庄重政 本庄重政は福山藩主水野氏の家臣本庄重紹の嫡子に生まれたが、 家督を弟にゆずり、江戸に出て兵法を学んだ。 島原の乱に従軍し戦功をたてたのち、現在の松永町高須に隠棲した。 福山城下に出て藩の子弟に兵法をおしえ、さらに、 干拓事業を指導し、1656年には柳津沖に新田を、 翌年福山湾沖の深津に干拓を完成させる。 1660年から藩営工事としての松永干拓に着工し、近郊の農民たちを動員し、まず堤を築いて塩場をひらき、 1667年役40ヘクタールの広大な塩田を完成している。 福山藩では、それまで中世的な揚浜塩田によって塩の需要をみたしていたが、 松永塩田においてはじめて生産性の高い入浜式技術が採用された。 重政は播州赤穂の大石頼母助(内蔵助の父)と親交ふかく、赤穂からの技術を取りいれたようだ。 1676年71歳で死去。 1831年彼の屋敷跡に本庄神社が建てられた。 塩田ができて以後300年、松永の塩は地方産業として発展したが、昭和35年松永塩田は廃止されることになった。 「広島県の歴史散歩」 広島県の歴史散歩研究会 山川出版社 1976年発行 本庄重政 吉浜新田、生江浜新田などを手がけたと伝わる。 「金浦探訪」 金浦歴史研究会 平成22年発行 撮影日・2013年1月7日 |
修行大師 場所・福山市多治米町 制作・ 撮影日・2013年12月12日 |
作成・2021年10月10日 追記・2021年10月14日