銅像の人  広島県(福山市)
 

サンエス社長 

場所・福山市神辺町 吉野山公園












撮影日・2017年2月16日


 


井上利八翁 


場所・福山市水呑町



水呑(みのみ)の旧鞆鉄沿いに胸像が立っている。







台座に顕彰文があり、

井上利八翁
翁は、慶応2年生まれで、広島県議会議員、大正13年に衆議院議員、
晩年は鞆鉄道取締役、地域に寄附を行った人。
昭和10年に亡くなった、とある。









撮影日・2013年12月12日

 
 


服部大池の”お糸” 


場所・福山市駅家町  服部大池


駅家(えきや)の服部大池には”お糸さん”伝説がある。地元で知らぬ人はいない。

”お糸さん”は、忠魂碑と並んで建つ。
この場所が服部地区の中心を意味する。

像には『人柱お糸之像」と刻まれている。






人柱伝説

服部大池の築造は大変な難工事であったために堤に「人柱」が捧げられたとの言い伝えがある。
それによると人柱にされたのは病気の母親に代わり人夫として夫役に出ていた16歳のお糸であったとされ、彼女が選ばれた理由は『着物に横つぎが当たっていて、未婚の娘』(貧しい処女であるという意味)であったからだという。
また、伝説には後日談があり、お糸には恋人の若者がおり毎夜池の堤でお糸の名を呼び続け、ついには池に身を投げてしまった。
それを知った人々が二人の霊を慰めるために弁財天を祀ったうえで松と槙を植えた。
後に2人の魂がひとつになろうとしているかのように2本の根が絡み合い、やがて『比翼の松』と呼ばれるようになったという(現在では枯れてしまい、お糸大明神に祀られている)。








服部大池

(Wikipedia)
服部大池は1643年(寛永20年)に福山藩初代藩主であった水野勝成が隠居後に神辺平野の干魃対策のひとつとして神谷治部を総奉行として服部川を堰き止めて造らせた。
福山藩で最大のため池で春日池、瀬戸池と並び領内三大池のひとつに数えられる。
1645年(正保2年)に完成し20ヶ村に恩恵を与え周囲の治水を大きく安定させた。以後、度々の改修を受けつつ農業用ため池として現在も用いられており、近年では1997年に改修工事が行われた。池の周辺は公園として整備され桜の名所として市民に親しまれている。




撮影日・2009年4月10日



 
 


坂本龍馬観音 


場所・広島県福山市鞆町


10年ほど前、福山市にも龍馬像ができた。
その時、坂本龍馬は日本人に人気があるのだなあと思った。






いろは丸の沈没

慶応3年(1867)4月、長崎の地で新たに発足した海援隊ですが、同月23日に、早くも暗雲が立ち込めてきます。
海援隊が大洲藩から借用していた船「いろは丸」が、紀州藩船と衝突して沈没した、「いろは丸」事件です。
長崎を出港したいろは丸は、関門海峡から瀬戸内海に入り、紀州藩船と讃岐の箱ノ岬沖で衝突。
しばらくして船は沈没。
龍馬は事故の責任は紀州藩船側にあるとして、御三家のひとつ、紀州藩を相手に損害賠償交渉を行います。

正式な交渉は長崎の聖福寺で行われました。
交渉には、途中から土佐藩の後藤象二郎が加わるようになり、
最終的には薩摩の五代才助(友厚)の調停で、紀州藩は事故の責任を認めて交渉は妥結。
龍馬は結果的に八万三千両もの巨額を賠償させることに成功します。
この金額は、いろは丸が積んでいた鉄砲類の金額を加えた額なのですが、
近年、鞆の浦沖でいろは丸と見られる船体の引き上げ調査がなされたところ、
積み荷とされていた鉄砲類は発見されなかったそうです。
おそらく、龍馬の「はったり」だったのでしょう。

「龍馬史」 磯田道史  文芸春秋 2010年発行







いろは丸で日本初の海難事故

「いろは丸」と紀州藩「明光丸」の事故は、
日本初の汽船同士の衝突という海難事故であり、その「審判」が行われたことも初の事だった。
まず最寄りの備後国鞆の港で談判が行われたが決着はつかず、長崎に舞台を移して継続して行われた。
土佐藩は当然龍馬の肩を持ち、紀州藩は徳川御三家の権威で押し切ろうとした。
結果は海援隊の大勝利となった。
龍馬はここで紀州藩の深い恨みをかったかもしれない。
龍馬はこうした中でも持論の大政奉還を、土佐藩の藩論として将軍に具申し、それを実現するため奔走していた。

「英傑の日本史」 井沢元彦  角川学芸出版 平成22年発行




撮影日・2021年10月2日  


 



「母子三人像」


場所・福山市霞町 中央公園



「母子三人像」

空襲の翌日、住吉町の田んぼの中で、母親が赤ん坊を抱き、あと一人の子どもを脇にして亡くなっているのが見つかりました。
三人は池田ユキ子・進一・敏子の親子で、夫の虎夫は出征中でした。
昭和47年に福山空襲の惨禍を後世に伝えるためのシンボルとして製作された「母子三人像」は、この親子の姿を刻んだものです。













「福山の歴史(下巻)」 村上正名  歴史図書社  昭和53年発行

福山大空襲

追憶はなつかしい。
でもこのことだけは時がたつに従って暗い淋しい気持ちに追いやられてゆく。
昭和20年8月8日、この日の夜は忘れられない。
炎炎と燃えさかる城下町の明るい光に、くっきりと浮く白亜の五層の天守閣、
家に降りくる焼夷弾を一つ一つ消すごとに仰ぐひとみに力強く、たのもしく、また美しく映じて、
城はまだ落ちないぞ、屋根に散る松葉にもえうつる火の粉を、水をまきつつ防ぎ、ほっと一息二階の窓に、
赤く炎を映じた天守を仰いだ瞬間、ごうごうとひびく九機編隊のB29が上空を過ぎていった。







 撮影日・xx













作成・2021年10月10日 追記・2021年10月14日