鳥取県 |
吉川経家 場所・鳥取県鳥取市 鳥取城跡 戦国の世でも、因幡鳥取城の籠城ほど人間性が極限まで追い詰められたものはまれであろう。 羽柴秀吉の大規模な包囲作戦で、城は完全に飢餓地獄におとされ、人肉をくらうという未曽有の事態が発生したのである。
当時の記録は、その模様をなまなましくつたえている。 「・・・・稲かぶを上々の食物とし、のちにはこれも尽き候て、牛馬をくらい、霜露にうたて弱き者は餓死・・・」 痩せ細った歩行も困難な男女が、城の柵ぎわにすがって、包囲軍に助け候えと泣き叫ぶのである。 それに容赦なく寄せ手の銃火が集中する。 撃たれた者がまだ息もあるというのに,城内のものどもが、手に刃物をもって、むらがり、あらそってその肉を切りとった。 「・・・身体のうちにても、とりわけ頭はよき味とみえ、頭をこなたかなたへ奪い取り逃げ候・・・」 秀吉の「渇殺し、槍も刀もいらず」という兵糧攻めの典型がこの鳥取城に対して行われたのである。 味方の兵を失わず、相手の自壊をまつ、ただし時間がかかる。 この攻城戦は、落城までに半年を要している。 総大将自刃に対し、秀吉は食べ物を与えた。 飢餓状態のあとの食物のため、胃や内臓がちじんでいるため、一度に食べて頓死する城兵が少なくなかった。 「戦国武将100話」 桑田忠親 立風書房 1978年発行 訪問日・2020年10月14日 |
琴桜 場所・鳥取県倉吉市東仲町 二所一門の大横綱の大鵬さんから、「さくら、さくら」とかわいがられ、猛稽古で横綱になった琴桜。 遅咲きで、比較的短命の横綱だったが、 立ち合いの”ぶちかまし”で押し出す相撲は”猛牛”と呼ばれた。 この猛牛は名とは正反対に、容ぼうが温厚で知的な雰囲気のお相撲さんだった。 【倉吉市のHP】 前佐渡ヶ嶽親方(第53代横綱「琴櫻」)は倉吉出身で、その偉業を称え銅像が造られました。 郷土をこよなく愛し、春恒例の「桜ずもう」には佐渡ヶ嶽部屋の力士とともに参加しており、名誉市民に選ばれています。 1940年11月26日生 鳥取県東伯郡倉吉町鍛治町出身 身長182cm、体重150kg 倉吉町の借家地で、警察官の子として生まれました。 警察官の父より柔道を仕込まれ、中学生では段位を認めてもらうほどの腕前でした。勧誘され、佐渡ヶ嶽部屋に入門しました。 1959年一月場所に初土俵、1963年三月場所にて新入幕を果たしました。強烈なぶちかまし、のど輪で一気に攻める押し相撲を得意とし、「猛牛」との異名を取りました。 1967年九月場所後大関昇進。 1968年七月場所幕内初優勝。 1973年一月場所後第53代横綱へ昇進。幕内最高優勝5回。 1975年2月1日に引退相撲が開催されました。 引退後は親方として、琴風、琴ノ若(現・佐渡ヶ嶽部屋親方)ら多くの力士を育て、合計24人の関取を育てるなど、相撲の普及、後進の育成にも情熱を注ぎました。 撮影日・2020年10月13日 |
鬼太郎と目玉おやじ 場所・鳥取県境港市 水木しげるロード 原画 水木しげる 1994年 撮影日・2020年10月28日 |
xxxx像 場所・鳥取県xx市xx町 撮影日・xx年xx月xx日 |
作成・2021年10月9日 追記・2021年10月20日