銅像の人  岡山県(岡山市)
 

土光敏夫 

場所・岡山県岡山市xx町















撮影日・xx年xx月xx日


 


カレーの市民 


場所・場所・岡山県岡山市   RSKばら園

ブロンズ ロダン「カレーの市民」の中の一部像高 210cm
昭和58年建立
岡山文庫






「カレーの市民」は6人。

そのうちの一名がRSKばら園に立っている。









撮影日・2017年6月14日

 

 


人見絹江 
銘「郷土の生んだ陸の女王人見絹江像」 


場所・岡山市いずみ町 総合グラウンドカンコースタジアム(現シティライトスタジアム)前
ブロンズ 作者 岡本錦朋 像高 165cm台座高 70cm
昭和37年 岡山日日新聞社寄贈
岡山文庫



戦前の岡山県では、男性の”嫁どり”の相手が、”一女”(いちじょ)卒業であれば
それは男性にとっても、家にとっても「うちの嫁は一女を出とる」と自慢のタネだった。
女性初の五輪メダルを獲得した人見絹江選手は、その岡山県立岡山高等女学校(当時は二女がなく岡女と呼ばれた)の出身者。

岡女時代はテニスの選手で、笠岡にも来て笠岡高等女学校と試合をしている。
女学校を大正13年に卒業。
京都の女学校の先生をしたり、大阪毎日新聞社に勤務した。

昭和3年(1928)第9回アムステルダムオリンピックに出場、800m走で銀メダル。
昭和6年(1931)喀血し入院、肺炎のため逝去。24才。





アムステルダムオリンピック

100mまさかの準決勝敗退
準決勝で4位。
「もう目の前は真っ暗になって奈落の底に落ちたような気持であった」
夕食も食べずベッドで泣けるだけ泣いた。
しかし「100mに負けましたといって日本の地は踏めない」
悩みに悩んだ末、次の日の夜、本格的レースとしては初めてという800m走への出場を懇願した。
「死の覚悟」をもって出場。
2位でゴール。
ゴール後多数倒れ、女子には過酷すぎるとしてローマ大会まで行われなくなった。
陸上選手らと共にベルリン、シベリア鉄道経由で、日本に凱旋した。

「伝説の人 人見絹江の世界」 猪木正実著 岡山文庫・文教出版社 平成30年発行







人見絹江選手の短い生涯は選手努力と名誉の他に、差別との闘いの人生だったように思う。


まず、女性が高等女学校に進学自体が稀(大正9年)。
卒業して他都市・他県に行くのが稀。
運動のため脚を露出するのが稀。
嫁に行かないのが稀。
さらに高身長やジェンダーなど。
現在ではまったく言われのなことと一人闘った。



時代の先端を走る人見には、何かと社会の偏見が付いて回った。

まず子供時代。
「女に学問は要らない」「女は家庭で子育て」といった男尊女卑の時代で、
女の子の場合、小学校さえ卒業すれば、後は裁縫などの嫁入り支度。

岡女進学後。
テニスを始めると、「ラケットとかいうものを女の子が振り回して・・」と。
女性が走り回ってスポーツをするなど考えられなかった時代だ。

「伝説の人 人見絹江の世界」 猪木正実著 岡山文庫・文教出版社 平成30年発行







撮影日・2018年11月11日




 
 


有森裕子 


場所・岡山県岡山市北区いづみ町 カンコースタジアム(現シティライトスタジアム)前



有森裕子選手は二度見た。
最初は瀬戸大橋の橋の上。
瀬戸大橋開通20周年記念行事の時で、参加者にもみくちゃにされていた。次々に握手や抱擁をされて前進できないほどだったが、
本人は笑顔で対応していた。
二度目は笠岡ベイファームマラソンで、先にゴールした有森は走る選手に声援を送っていた。

選手を引退後も、スポーツや社会活動で岡山県や日本を代表する活動家として活躍している。







人見絹江と同郷のメダリスト、有森裕子は、就実高校時代、長距離走に取り組んだ。
岡山市内で開かれた山陽女子ロードレースで、優勝舎に贈られるのが人見絹江杯だった。
有森自身は、リクルート時代の1989年(平成元年)行われた第8回大会のハーフマラソンで優勝、
人見絹江像のトロフィーを手にしている。

花開いたのが、1992年の第25回スペインバルセロナオリンピック。
女子マラソンで有森は2位に食い込み、見事に銀メダルを獲得した。
その日は人見絹江が日本女子陸上選手として初めてオリンピックでメダルを取った日と同じ日であり、
その日から実に64年という月日が経過していた。
有森にとって
「人見さんを語らずに過ごすことはない」くらいの大きな存在になったという。

有森は「人見からバトンをもらった気がする」として、
国連人口基金親善大使などとして各種ボランティア活動と取り組んでいる。


「伝説の人 人見絹江の世界」 猪木正実著 岡山文庫・文教出版社 平成30年発行




撮影日・2009年11月21日


 

浦上玉堂

場所・岡山県岡山市北区石関町


浦上玉堂は江戸時代の画家。
元は戦国武将の浦上家の末裔、鴨方藩の武士。
妻の死後、武士をやめて漂泊の画家となった人。








「岡山の人物」 黒崎秀明著 岡山文庫 昭和46年発行

浦上玉堂

玉堂は市内石関町で生まれたという。
備中鴨方藩の藩邸があった。玉堂はその藩邸内でうぶ声を上げたわけだ。

琴は巧みに弾じていたが、画の勉強がはじまった。
37歳の春、新知行90石をもらって大目付役を仰せつかった。

それから12〜13年の月日が流れ、寛政6年となる。職を辞し、
但馬城崎の出湯にて一絃琴をかなでる。
玉堂は父子3人で漂泊が続く、江戸、会津へ行く先々で何枚かの画を描き残した。

やがて京都に居を定めたが、好んで旅に出た。
心のおもむくままに画筆をふるった。
この頃から彼の画作はいよいよ円熟の度を加ええてゆくのだ。

ブルーノ・タウトは玉堂を評してこう言っている。
「私の感じに従えば、この人こそ近代日本の生んだ最大の天才である。
ゴッホに比することができるであろう」

文政3年(1820)9月、玉堂は京都で76年の生涯を終えた。







 
撮影日・2009年2月21日












作成・2021年10月9日 追記・2021年10月19日