銅像の人  岡山県(備中)
 

たまがきと祐清像 

場所・岡山県新見市   JR新見駅前




新見の駅前にずいぶん立派な銅像が建っている。





たまがき
(Wikipedia)


たまかき(生没年不詳)は、京都東寺領の新見庄(岡山県新見市)の荘官、惣追捕使の福本刑部丞の妹とされる。

たまがきは、寛正3年(1462年)、東寺から直務代官として、新見に着任した東寺の僧・祐清(ゆうせい)の身辺の世話をしていたらしい。

祐清は、寛正4年(1463年)7月、年貢未納の名主・豊岡を追放したことを機に、隣接する相国寺領に住む豊岡の親族によって斬殺される。


東寺に向けて祐清の遺品を求めた手紙が「たまかき書状」で、中世農村女性の自筆書状として全国的に珍しい史料といえる。

なお、この書状がたまがき自身がしたためた物であるか否か、また、たまがきが遺品を譲り受けることが叶ったのか、たまがきの年齢、祐清との関係などは伝わっていない。











撮影日・2014年9月2日


 


仁科芳雄博士
小川郷太郎大臣 


場所・岡山県浅口郡里庄町  里庄歴史民俗資料館

原子力で有名な仁科芳雄博士、
里庄町出身の偉人。







仁科芳雄

明治23年里庄町浜中に生まれた。
東京帝国大学卒業後、留学し「クラウン仁科の式」を発表、
理学博士の学位を受けた。
昭和19年1月大サイクロトロンを建設。
21年文化勲章を授与され、30年仁科記念財団が創立された。
胸像は歴史民俗資料館の西側に建立され、
昭和55年11月除幕式が行われた。
福本紀孝制作

「ふるさとの想い出写真集」 森脇正之編  国書刊行会  2020年発行




【里庄町HP】

小川郷太郎

小川博士は、明治9年6月9日里庄町で生まれました。
東京帝国大学政治学科を卒業して、大蔵省に入省し新設の京都帝国大学経済学部に迎えられた。
財政学研究のためドイツ、オーストリアなど、ヨーロッパ各地を6年間遊学、帰国後、教授、学部長などつとめ、法学博士となった。大正13年には京都帝国大学を辞し、同年拓殖大学の学監に、大正15年からは教授に就任した。
また大正6年には京都帝国大学に在籍のまま衆議院議員(京都選挙区)に当選、民政党岡山県支部長、浜口内閣の大蔵政務次官、広田内閣の商工大臣、近衛内閣の鉄道大臣となり、第2次大戦中ビルマ政府の最高顧問として財政再建にあたった。
昭和20年4月1日、帰国途中の東シナ海で乗船していた「阿波丸」が撃沈され死去した。




撮影日。2021年3月31日


 
 
 

丸川松隠と山田方谷

場所・岡山県新見市    新見市役所前






【高梁市HP】

山田方谷を語る
丸川松隠に学ぶ


5歳になった方谷は父親に連れられて新見の安養寺まで約20キロメートルの道を歩きました。そこは伯母が嫁いでいた寺で、下宿させてもらって松隠塾に入学するためでした。丸川松隠は幼い方谷を孫のように慈しみ、当初は世話と指導を彼の長男・慎斎に託しました。後年、方谷は受けた情愛を「父母の慈しみを超えていた」と回想しています。松隠は「ああ、こんなすばらしい児であるお前はどこから生まれてきたのだ。落ち着いて座り、小さい手に太い筆をかまえて、字を書くと竜が走るようだ」と感心しています。それを聞いた新見藩主関公が7歳の方谷を呼び寄せて面前で書かせ、異例なことと人々を驚かせています。


 9歳のとき、松隠塾に来た客が、方谷が勉強している姿を見て、「坊や、学問をして何になるんだね」とひやかすように聞くと、彼はすぐに、「治国平天下」と答えました。当時の学問といえば儒学、中心は朱子学で、「治国平天下」はその目標を端的に表す言葉です。朱子学では必ず学ぶ重要な書物として「大学」「中庸」「論語」「孟子」の四書を挙げています。その最初に学ぶ「大学」の教えは、まず明徳を明らかにする。次に自分の心を良くし、正しい行いをする「修身」、心の正しい人は家人を良く指導できる「斉家」、家をよく整えられる人は国をよく治め「治国」、その人は世の中を平和にする「平天下」。この「治国平天下」のために勉強していると方谷は言ったのです。人々は驚き、「彼は神童だ」と評判になりました。しかし、彼は穏やかで謙虚な人でしたから、おごることなく学問に励みました。











撮影日・2014年9月2日


 
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場所・xx市xx町








撮影日・xx年xx月xx日











作成・2021年10月9日 追記・2021年10月13日