銅像の人  岡山県(備前)
 

和気清麻呂 

場所・岡山県和気郡和気町藤野 和気神社前
ブロンズ(茶色塗)
作者 朝岡文夫
像高 463cm 台高 180cm
昭和59年3月建立



「岡山彫像」 岡山文庫 平成元年発行

天文5年(733)藤野の生まれ。
国政に参与し、長岡遷都・平安京建設などの業績あり、
宇佐八幡宮に使して弓削道鏡の野望をくじいいた話は有名。


戦前は天皇家を護った英雄。
戦後は平安京遷都などが事績として紹介されている。




和気清麻呂 (733〜799)

現在和気町にぞくする藤野郷の豪族和気氏の出生と伝えられる。
早くから奈良朝廷に仕え、
藤原仲麻呂の乱の鎮圧に勲功があった。
また大宰府の宇佐八幡に詣でて、神託によって道鏡の陰謀を覆したのは神護景雲3年のこと。
延暦23年、62歳の時には彼の健言が入れられて、都は平安の地に移る。
清麻呂は造営太夫として工事を指揮したが、工事半ばにして率した。

乱による犠牲者の救済、また棄子83人を養育して
わが国孤児救済事業の始まりとなった和気の広虫は、清麻呂の姉である。

「岡山の人物」  黒崎秀明  岡山文庫 昭和46年発行






和気の清麻呂

和気氏が美作から備前東部にかけて勢力をもっていた豪族であることは、ほぼ正しい推測であるといえる。
和気氏を代表する人物が、和気清麻呂であることはよく知られている。

清麻呂とその姉広虫とが、宇佐八幡の託宣を奉じて、道鏡の帝位就任を退けたことは、戦前の歴史教科書では特に有名であるが、
清麻呂については、その開発土木事業に注目しなければならない。

「おかやま人物風土記」 岡山県広報協会  平成14年発行









撮影日・2007年5月2日




 


西行 


場所・岡山県玉野市渋川





「銅像歴史散歩」 墨 威宏 ちくま新書  2016年発行

「北面の武士」だった西行は20代で出家し、二度の東北への旅など旅をつづけた歌人として知られる。
岡山県玉野市の渋川海岸の西行像がまさに戦乱に関係する。
「保元の乱」がおき、あっけなく敗れた崇徳上皇は讃岐に配流された。
都に戻りたいという願いかなわず、
「日本国の大魔神」になってやるとうらみながら死亡した。
西行は親交のあった崇徳上皇の霊を慰めるために白峯を訪ねた。


よしや君 昔の玉の 床とても かからんのちは何にかはせん
西行


鎮魂の歌を詠んだ。







「日本史探訪5」 角川文庫 昭和59年発行
山本健吉

西行

西行には、自然を征服してやろうとか、ねじふせてやろうとか気持ちが毛頭ないわけです。
自然と自分が一体になろうという気持、自然の中にはいっていって友達になろう、
親しもうという気持ちなのです。

松だって、花だって、月だって、水だって、川だって、山だって、みんな友達にしようというわけです。
近代文化、科学的な文化が、今や反省期に入ってきていますね。
今のような時代には、こういった西行のような思想も顧みられていいんではないかと、そう感じます。





撮影日・2018年4月20日



 
 


桧垣直右 


場所・岡山県玉野市   宇野港緑地公園

ブロンズ 作者・佐山道知 
像高 1710cm 台高 180cm
昭和55年 玉野市制40周年 宇野開港50周年記念
岡山文庫


山口県出身
明治39年岡山県知事在任中に、宇野港築港を計画し、
県会の反対を押しきり原案執行で起工にこぎつけた、

岡山文庫




宇野港

宇野港が世の注目をあびはじめたのは日清戦争後のことだ。
国力増強、軍備拡張の観点から、時の海軍大臣西郷従道や第十一師団長乃木希典ら多くの要人が現地を視察し、その自然条件のよさから評価したが、すぐには実現せず、
また1904(明治37)年宇野線敷設の仮免許がおりたときも見おくられ、
翌々年起工式まで行われながら、県会と県知事の対立でもめ、けっきょく内務大臣の指示で強行され、
1909(明治42)年に近代的な宇野港が完成した。

「岡山県の歴史散歩」  山川出版社  1976年発行





第8代岡山県知事 桧垣直右

宇野築港計画は、日露戦争中の明治37年県会で、当時の知事桧垣直右によって提案されたが、否決された。
このため知事は翌年ふたたび県会に提案、県会は負担にたえられないという理由で反対し、廃案にもちこんだ。
知事は「本県の公益のため」無視し、明治39年内務大臣の指示を得て原案執行を公布した。


こうして明治38年起工し明治42年竣工した。
これについで明治43年に国鉄宇野駅が開業し、中国四国の連絡の宇高連絡船が就航するに及んで、
港としても本格的形態と機能をととのえるにいたった。

「岡山県の歴史」  谷口澄夫著 山川出版社 昭和45年発行




撮影日・2022.4.16


 
 

和気広虫 



場所・岡山県和気郡和気町・和気神社境内



戦前の”皇国史観”が絶対的であった時代は、天皇家を守った清麻呂は
和気郡も和気町も自慢の郷土の英雄だった。

小学校の多くは、校庭に楠公と清麻呂の像を建立し、ついでに小楠公や広虫も英雄になっていた。
終戦により楠公も清麻呂も、一挙に歴史から姿を消したが、いまは天皇家と関連しない面での功績が再評価されているようだ。




和気広虫

和気清麻呂の3歳年上の姉。
地方の郡司の娘のならいで采女として都に上がり孝謙上皇に仕え、勅を伝宣する女官を務めた。
その人柄は「貞純で節操に欠けるところがない」と評価された。
天平宝字8年(764)、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の逆徒の助命を嘆願して死刑を流刑に改めさせた。
乱で生じた孤児83名を養育し夫の姓を与えるなど、わが国最初の里親制度・施設養護の創始者として知られる。


道鏡事件

道鏡事件が起こったのは769年で和気清麻呂は37 歳、近衛将監の時でした。
仏教政治がはびこる中、僧道鏡が政界に入り、女帝の考謙(重祚して称徳)天皇から特別深い寵愛を得て、太政大臣に、次いで法王となり、最後には天皇の位を望むようになりました。
そこへ九州豊前国の大宰の主神(かんづかさ)が朝廷に「道鏡を天皇の位につければ天下は太平となる」というお告げ(神託)をもたらしたのです。
天皇は驚き、神意を確かめるために使いを出すこととなり、その役に清麻呂が選ばれました。
宇佐から帰った清麻呂は死刑を覚悟で、先のお告げとは全く反対の「道鏡を除くべし」という内容を神意として言上したため、道鏡によって大隈へ、 広虫も備後へと流されてしまったのです。
これが道鏡事件です。

(岡山県和気町役場Web)




撮影日・2021.12.21



 

万代常閑

場所・岡山県備前市西片上




真光寺三重塔と万代常閑像。





万代常閑(もず じょうかん)



(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

1675−1712 江戸時代前期の医師。
延宝3年生まれ。備前岡山藩医。万代家11代常閑。

家伝の妙薬「反魂丹(はんごんたん)」を富山藩につたえ,富山売薬の祖とあおがれた。

天和(てんな)3年(1683)富山藩主前田正甫(まさとし)に薬を献上したこと,あるいは正甫の家臣を常閑が長崎で治療したことが機縁という。

正徳(しょうとく)2年11月20日死去。38歳。姓は「まんだい」ともよむ。






じつは、境内でなく国道2号線の歩道に建っている。







撮影日・2022年4月5日




 
 
 











作成・2021年10月9日 追記・2024年3月8日