銅像の人  岡山県(美作)
 

宮本武蔵像 

場所・岡山県美作市  リゾート武蔵の里五輪坊





宮本武蔵

宮本武蔵の伝記に関しては、今なお不明な点が多い。
殊に、その出生地、実父、養父のことは異説が多く、とうていまとまりがつかない。


武蔵自筆の『五輪書』から、要約すると、
天正12年に播州で生まれた。
13歳で有馬喜兵衛に勝ち、16歳で但馬の秋山其に勝ち、21歳で京にのぼり数度の他流試合に勝ちを制した。
28.29歳までの間に66度の試合をして、一度も負けなかった。
30歳を越してからは、剣法の理論にうちこんで他流試合をやったが、
50歳ごろ、自然と剣の奥義に目を開き以後は剣理によって自得した。
その兵法を二天一流と称し、肥後岩戸山において『五輪書』の執筆を始める。時に60歳。


『五輪書』に書き漏らしている事項はひじょうに多い。
慶長5年、17歳、関ケ原合戦に出たという説があるが、一言も触れていない。
慶長9年、21歳、その頃行われたと思われる吉岡一党との決闘に触れていない。
慶長17年、29歳、巌流島の決闘のことも書いていない。
慶長・元和の大阪の陣、31.32歳、武蔵は陣場稼ぎに出たらしいことになっているが、触れていない。
32歳以前の彼の履歴は、ほとんど何も判明していないし、
古文書類も皆無というに等しいのである。


「日本剣豪100選」  綿谷雪 秋田書店  昭和46年発行 









撮影日・2009年4月18日



 


森忠政像 


場所・岡山県津山市山下  鶴山公園
ブロンズ 作者 日原康
像高 160cm 
製造・1978年(昭和53年) 津山ライオンズクラブ10週年記念
津山藩初代藩主
津山城を築城
岡山文庫











撮影日・2013年3月16日

 
 


児島高徳 


場所・津山市院庄
備前焼
作者 浦上善治
像高 110cm
昭和40年 津山ライオンズクラブ創立10周年記念
岡山文庫

母は、ほとんど歌をうたわない人だった。童謡も、民謡も、児童唱歌も、流行歌も。
その母が歌って聴かせたくれた曲が二つある。


青葉茂れる桜井の・・・「桜井の訣別」(楠木正成)
桜ほろ散る 院の庄・・・「忠義桜」(児島高徳)

どちらも天皇家の忠臣を歌っていて、学校教育が神国化していたのがうかがえる。
特に児島高徳は児島の人であり、津山での古事が曲となっていて、学校でも熱心に歌ったようだ。





児島高徳はいったい何をした人なのか?
それを説明するのは歌がいちばん。


忠義桜

桜ほろ散る院の庄   遠き昔を偲ぶれば   
幹を削りて高徳が  書いた至誠の詩(うた)がたみ

君のみ心安らかれと   闇にまぎれてただ一人   
刻む忠節筆の跡   めぐる懐古に涙湧く  

「天勾践を空しうするなかれ  時に范蠡なきにしも非ず。」

風にさらされ雨に濡れ   文字はいつしか消えたけど   
つきぬほまれの物語   永久(とわ)に輝く花のかげ



戦前から児島高徳は史実がなく、実在も疑われていた。
戦後忠臣は、過去のものとして拒否されたり、忘れ去られていった。
今では岡山県人でさえ、その名も見ることも、聞くことも稀になっている。









撮影日・2008年4月20日

 
 


箕作阮甫像 


場所・岡山県津山市西新町 ”重伝建”城東地区



箕作阮甫先生像



・・・

「街道をゆく36」 司馬遼太郎  朝日新聞社 1992年発行

作州津山(岡山県)に、箕作(みつくり)というめずらしい姓の家があり、
代々秀才を出したことで知られる。
稀姓ながら、たいていの百科事典に、すくなくともつぎの代表的な5人の名は出ている。
年代順にならべると、

箕作阮甫 1799〜1863
箕作秋坪 1825〜86
箕作麟祥(りんしょう) 1846〜97
箕作佳吉 1857〜199
箕作元八 1862〜1919



箕作秋坪先生像


その源流は作州津山藩の藩医箕作丈庵という人にあったようで、
その子阮甫から名声が大いにあがった。

阮甫は蘭学を学び、医家としての著作も少なくない。
時代がなお啓蒙機だったから、手引書のような著作である。
が、時代は阮甫の医学より語学の方を必要とした。
天保10年(1839)、幕府の天文方の訳員としてまぬかれた。
対外問題がやかましくなってきたため、幕府として西洋語のできるものを諸藩からひきぬかざるをえなくなったのである。

阮甫の半生は、そのまま幕末対外交渉史だった。
嘉永6年には長崎でロシア使節に応接し、
翌年の安政元年には東奔して下田でロシア使節と会い、同年アメリカ使節とも折衝した。


秋坪は、阮甫の養子になり、阮甫同様、洋学をもって幕府につかえた。
要するに箕作姓は、一族をあげて幕府と明治政府のために肝脳を労しぬいたといっていい。









撮影日・2022年4月6日

  




 

浮田佐平 

場所・岡山県津山市山下 鶴山公園(津山城跡)




城跡に建つ「浮田佐平翁像」、戦前は胸像でなく全身の像だったが、供出されたそうだ。







浮田佐平 うきだ-さへい

1867−1939 明治-昭和時代前期の実業家。
慶応3年10月25日生まれ。家業の製糸業をつぎ,機械製糸の導入など改良と近代化につとめ,大正元年浮田製糸を設立。
植林業,果樹園経営,奥津峡の観光開発なども手がけた。
また,津山(鶴山)城東麓に窯をつくり「佐平焼」をおこした。昭和14年2月1日死去。73歳。美作(みまさか)(岡山県)出身。

デジタル版 日本人名大辞典










撮影日・2022年4月6日














作成・2021年10月9日 追記・2024年3月8日