銅像の人  岡山県(井原市)
池田筑後守長発

場所・岡山県井原市井原町  井原小学校





池田筑後守長発 パリに燃ゆ

文久元年(1861)の第一回遣欧使節に続き、文久3年(1863)第二回が派遣された。
この時、
34名の使節団の正使をつとめたのは、旗本で外国奉行をつとめる井原の殿様・池田筑後守長発、当時27歳であった。

幕府の意図は、横浜を鎖港すべく、まずその突破口としてナポレオン三世に会見して同意を得、次に他の諸国を歴訪しようとしたものであった。
一行は12月29日横浜を出港し、香港・シンガポール・カイロ経由で翌年(1864)3月10日にマルセイユに上陸し、3月16日巴里に到着した。
横浜出港後79日間を経過していた。

長発は3月24日に教書を奉呈し、甲冑一領と黄金飾りの日本刀二口を献上した。
大満悦のナポレオン三世は3月28日、パリ宮殿で盛大な謁見式を挙行した。
フランス側はナポレオン皇帝・皇后・皇太子のほか、国務大臣や文武百官に加え、官延女官が多数参列した。
一行の中でフランス語が堪能であったのは益田孝ほか10名であった。

長発は61日間のパリ滞在中、7回にわたって公式の外交交渉を重ねる一方、各地にでかけてフランス文化の吸収につとめた。
製鉄所・紡績所・ガラス工場・陶器工場・金銀細工所のほか、医学研究所・写真館を全員で訪問した。

「おかやま人物風土記」 岡山県広報協会  平成14年発行







井原市観光協会HP

池田筑後守長発の像
井原小学校の敷地にはもともと、江戸時代に領主であった旗本池田家によって建てられた陣屋(役所)がありました。
この敷地内に学問所を建てる計画が挙がり、10代目の池田筑後守長発は自ら「心学館」と名づけ、その思い入れは相当のものでしたが、
途中病に伏しその願いは叶いませんでした。
正面玄関の東側にある庭園「冬園」には、昭和61(1986)年に長発の生誕150年を記念して、
陣屋跡を示す石碑と池田筑後守長発の銅像が並んで設置されました。

※学校施設のため、観光での訪問はご遠慮ください。 




撮影日・2021年10月24日

 

内山完造先生像 


場所・岡山県北山町 桜橋公園









「井原・笠岡・浅口の歴史」  監・太田健一  郷土出版社 2009年発行


魯迅


内山完造の上海生活のなかで、人生を決定付けたのは、昭和2年(1927)秋、
書店を訪れた魯迅との出会いである。

魯迅は、中国近代文学の基礎を築いた文学者であるが、列強諸外国からの中国侵略やそれに妥協する中国国民党政府を厳しく攻撃した。
そのため中国政府から危険人物とみなされ、その生命を脅かされるが、完造はわが身の危険も省みず魯迅一家を助け、
魯迅が亡くなるまでの約10年間、物心両面にわたり支援を続けた。

完造のこの行動は、今も中国において「魯迅の命の恩人」と讃えられている。






撮影日・2021年10月6日 

 
 
 


井原町長・柴原宗助 

場所・岡山県井原市井原町   郷社













撮影日・2021年3月27日

 



内山完造 


場所・岡山県井原市芳井町 芳井図書館入口









(Wikipedia)

内山完造
うちやま かんぞう

内山 完造(うちやま かんぞう、1885年1月11日 - 1959年9月20日)は、日本の書店主・文化人。
1930年代以降、中華民国と日本の両方で書店経営者として成功し、日中文化人交流に大きな影響を与えた。内山書店は現在も、東京の神田神保町で中国・アジア関連書籍を多く扱っている。
出身地は岡山県後月郡芳井村(現・井原市)で、村長の家に生まれた。











撮影日・2018年11月4日

 
 


中国地方の子守歌像

場所・岡山県井原市高屋町 子守歌の里高屋駅前





管理人の妻は井原市下出部町の出で、井原市高屋町は隣町。
その妻に、「(自分や妹・弟が)中国地方の子守歌を唄ってもらっていたか」聞いてみると、
「まったくない。そもそもその歌を知り、高屋の歌であることを知ったのが20歳を過ぎてから」という返事だった。

ついでに義母の話、「(子育てを終えて、いつか)テレビの番組で紹介されて初めて知った」。

再び妻の話、
「(井原市内の病院で出産した)病院の壁に「ブラームスの子守歌」と「中国地方の子守歌」が貼ってあった。
それを見て、自分の子には中国地方の子守歌を唄うことがあった」。



通称「高屋駅」は、正式名称は「子守唄の里高屋駅」。
駅前には子守歌像もある。

井原市内の文化祭や芸能祭、そのほかイベントにはよく行くが、
「中国地方の子守歌」を唄ったり、演奏したり、会場へ歌が流れる、そんなことを経験した思いは一度もない。

歌詞も曲もいい歌なんだが、”子守歌の里”とまで自称するのは、少し違和感を感じる。






「歌がつむぐ日本の地図」  帝国書院  平成25年発行

中国地方の子守歌

詞・曲 不詳  編曲 山田耕作  昭和3年

東京音楽学校を出たばかりの作曲家志望の青年が、名声高かった山田耕作を訪ねた。
”ねんねこしゃっしゃりませ 寝た子のかわいさ”。
山田の前で独唱したのは、彼の郷里で歌い継がれてきた子守歌だった。
これが名曲「中国地方の子守歌」が世に出たきっかけである。
後に音声家となった上野耐之は、井原市高屋町出身。
高屋町には、「子守唄の里高屋」駅に子守歌記念碑があるほか、
歌詞や案内板が置かれた子守歌ロードも整備されている。




撮影日・2021年10月22日


 











作成・2021年10月9日 追記・2021年10月24日