銅像の人  岡山県(岡山市)
 

六高生 

場所・岡山市中区駅元町  岡山駅前広場



岡山駅前の六高生。

日本の将来を担う若者に、ずいぶん岡山市民も好意的に、また学校を誇りに思っていたようだ。
学校は学問も行動も割と自由だった。


有名な話は、永野6兄弟の永野重雄さん(富士製鉄社長・日商会頭)
柔道部の人で、市中で巡査ともめたさい、その巡査を旭川に投げ込んだ。

しかし事件にもならず卒業して東大に進んでいる。




六高は広島市との争奪戦で設置できたが、
その後、ほぼ各県に高校(ネームスクール)が創立された。
しかし戦前では、最終学歴よりも卒業した高校を重視した社会であったようだ。









撮影日・2013年10月14日


 


裸婦 


場所・岡山市錦町 両備バス本社
ブロンズ 作者・ 木内克
像高 145cm 台座 100cm
昭和50年 建立
岡山文庫







撮影日・2013年10月14日

 
 


石井十次 


場所・岡山市東山 博愛会病院前
ブロンズ 作者 石井十次は堀進二 子供らは宮本隆 伊原弘
像高 胸像78cm 子供80cm
昭和52年再建


石井十次は、明治の中頃から孤児救済事業を行い、
岡山県では有名な人物だったが映画化され、今では全国に知られる岡山県の偉人となった。


映画は『石井のおとうさんありがとう』(2005年3月19日公開)で、石井のおとうさんには松平健、他に竹下景子や辰巳八郎が出演した。








宮崎県出身。
明治20年 岡山市東山に孤児院を開く
最盛期には1200人を収容、延べ約3.000人。
明治42〜45年の間に逐次宮崎県茶白原へ移る 大正3年茶白原で病没

岡山文庫









「岡山県の歴史」 谷口澄夫  山川出版社 昭和45年発行

石井十次

キリスト教に帰依した石井十次は、明治20年(1887)23歳の時、
岡山市門田屋敷の三友寺の一室を借りうけて孤児教育会をおこした。
これが岡山孤児院のはじまりである。
かれは明治15年、岡山医学校に入学しており、
明治17年には新島襄の「同志社大学設立趣意書」を読んで教育の必要性を痛感し、郷里の宮崎で教育会や私塾を組織して活動を開始した。
明治20年、脳を病み、岡山県邑久郡大宮村で転地療養中、貧児教育を一生の仕事とすることを決意し、ついに孤児教育会をおこしたのである。

大原孫三郎は石井十次のよき理解者・後援者として活動をはじめた。
大正3年に石井十次が死去したあとは、十次にかわって孫三郎が岡山孤児院長に就任した。





撮影日・2008年10月11日




 
 


役行者 


場所・岡山県岡山市北区吉備津 鼻ぐり塚






「超人役行者小角」
 志村有弘  角川書店  平成8年発行

はじめに

役行者(えんのぎょうじゃ)くらい謎につつまれたふしぎな人はいない。
行者は空を飛行することができたという。
役行者は通りいっぺんの仙人ではなかった。
人にとりついた怨霊を鎮めたり、病人をなおしたり、行者に助けられた人は数えることができないほどである。
行者の与える呪符は、多くの人々を難病・奇病から救ったといい、だから、後世、『扶桑皇統記』の作者は世人が「活仏(いきぼとけ)」のごとく敬ったと書いている。

行者が偉大であったのは、天武天皇が帝の位に即くときに、相当な助力をしていると思われるのに、まったく歴史の上では姿を現していないことだ。
けっして表面に名前が残るような姿勢を見せなかった。

役行者は、ある一定の場所にとどまっているということがなかった。
生まれ故郷の大和から、北は関東、東北まで足をのばし、南は中国地方から九州の各地まで、
高い山があれば修行の場を求めて飛び去って行った。









撮影日・2013年5月26日

  






ディエゴ喜斎

場所・岡山市北区天神町 


公園の向かい側に「聖ディエゴ喜斎記念聖堂」がある。


聖堂前に石像が建つ。


聖ディエゴ喜斎。







(Wikipedia)

ディエゴ喜斎(ディエゴきさい)

現・岡山市北区生まれ。
安土桃山時代の日本の商人、キリシタン。イエズス会員。
日本二十六聖人の一人として磔刑に処せられて殉教、死後に聖人。
俗名(日本名・本名)を市川喜佐衛門、ヤコボ喜斎と称される。


三原市の三原城に「聖トマス小崎像」という殉教者の銅像があるが、

同じ”二十六聖人”で、豊臣秀吉の命令で長崎まで道中引っ張られたのち磔となった。







撮影日・2022年5月28日  



 
 
 











作成・2021年10月9日 追記・2022年6月15日