銅像の人  岡山県(笠岡市)
 

和気清麻呂 

場所・岡山県笠岡市西大島


この像は終戦後すぐに学校から撤去された。
破壊するのは忍びないと、旧家の庭に隠すように埋められた。






その後、時が流れ学校に復旧さしてもいいのではないかという声が出るころ、
学校が統合されて元の学校はなくなった。
掘り出された像は、統合先の学校に建った。



和気清麻呂は天皇家を護った忠臣として、
戦前は楠木正成と並ぶ英雄だった。
多くの学校や公的な場所に銅像があったと思えるが、
その銅像は西大島と似て、撤去後破壊、撤去後隠す、のどちらかだっただろう。







学校に再び建った清麻呂は、再び”忠臣”で蘇ったかといえば・・・まったく違う。一言もない。
像の隣に建つ説明文を転記する。


和気清麻呂略伝

和気清麻呂は、日本の古代史の中で、
奈良時代から平安時代の転換期に活躍した人物です。
天平5年(733)備前国藤野郡(現和気町)に生まれました。
近畿地方の河川改修や開削を行って治水に努め、数多くの土木工事を行いました。
また、美作・備前国造として郡民の負担軽減を図るなど民生の安定と発展に努めました。
平安遷都は彼の立案であったことは有名です。



撮影日・2017年5月20日


 


畑中平之丞 


場所・岡山県笠岡市北木島町豊浦



北木島の石材業


石材の採掘が本格的に行われだしたのは、伊予の国の畑中平之丞が多数の石工とともに
この北木島に移住してからで、
地元民の持ち山を賃借りして石材の採掘を大規模に始めたようである。
これに対して地元島民は、
危険で重労働を伴う採石場の仕事を敬遠し丁場の石工にはならず、
むしろ石材の加工業、販売業に進出した。
また地元島民にとって採石業者から支払われる地代(石材出荷額の一割)も大きな収入であった。

石材産業に依存した島民の生活水準は極めて高く、
そのためか水産や観光業の発達はいま一歩のところである。

戦前には明治神宮、桃山御陵、大阪府庁、日本銀行などのビルの壁・床の装飾用に北木石が使用され、
なかでも靖国神社の大鳥居(太さ1.8m、長さ12.7m、重量80屯)が金風呂港で出荷され、
北木石の名を全国に知らせることになった。

しかし平成の現在では中国石に押され、操業中の丁場は1〜2ヶ所のみとなっている。

(森文忠)

「井原・笠岡・浅口の歴史」 太田健一監修  2009年発行








「ひらけゆく笠岡」 笠岡市教育委員会  昭和35年発行

畑中平之丞

天保14年(1843)北木島村豊浦に生まれました。
北木島といえば石材といわれるほど、北木島の石は有名です。
彼は花崗岩の採掘方法や販路について日夜苦心して北木島の石を全国に紹介する基礎を作った人です。
同時に通信の不便な島のことを考えて、北木島郵便局の開設にも努力し、初代の郵便局長にもなりました。
島の人々から恩人としたわれましたが、昭和5年なくなりました。









撮影日・2016年8月11日

  


 
 


伊藤大孝 


場所・岡山県笠岡市神島 福浦公園

氏は長く岡山県議を務め、また日本遺族会の役職を務めた。
笠岡市名誉市民。








「人生不屈」  伊藤大孝  昭和61年発行


ビルマ戦線
ペグー山系


師団は6月16日転進を開始した。
ペグー山系は標高300m、山幅60km内外の竹林を主とする人煙まれな山なみである。
この山中に糧秣を求めることは至難であった。
そのため、パウカン平地では敵と戦いながら、籾集めに命をかけて行動した。
ペグー山系突破の日数は約1ヶ月と予定されたが、
各自40日分の食糧の携行を命ぜられた。
芋・もみがらをとってきてドンゴロスや一斗缶に入れるのであるが、
兵器弾薬のほか、このカンを背負えないものは餓死するといわれた。

それからが過酷な行軍であった。
竹林の中、チークの大木で、昼間も薄暗い気持ち悪さ。
道もなく、連日の雨で一面泥濘。
数々の激戦で将兵の被服や靴はぼろぼろ、大半がハダシとなった。
小石と砂利の山道を切り開いて進んでいく。

山中では、草の根を掘り、毒のありなしを調べたり、夜はタケノコを焼いて食べた。
疲れ果てた体を笹で覆い、どしゃ降りの中をうたた寝した。
コレラ、デング熱が流行し、戦友の命を次々と奪い去った。
100m行くごとに1人か2人が死んでいった。

苦難を乗り越え、6月30日、ペグー山中コピューテに出征以来はじめて聯隊のみんなが一ヶ所に集結した。
だが、生存者1.000名、悲しいかな、人員損耗率73.6%だった。


はだしで六百里

ジャングルの中を通った。
雨季のビルマは雨また雨である。
われわれはただ歩いた。
”日本へ帰りたい。
もう一度この足で祖国の土を踏みしめたい!”
ただもうこの一点であった。

食べものはもちろん、着るものも足にはくものもなくなった。
裸足になって、太陽の昇る方向へ向かって、東へ、東ヘと、一足でも祖国日本へ近づこうと、六百里歩いた。
ぼろ布をまとい、食べ物は夜、民家の籾や鶏を盗んだりしてあらゆるのを食べた。
私はどれだけ多くの戦友たちの最後を見届けたことであろうか。
しかしながら、その戦友たちを手厚く葬る余裕すらなかった。

8月27日、南ビルマのミンランタゼイクの山の中に到着した。
ここで聯隊は師団の将校から終戦(8月15日)に関する大詔、および各殿にわたる処置命令を受領した。
聯隊長は将校全員を集め、涙をのんで軍旗奉焼式を行った。
聯隊は9月5日、現地英軍によって武装を解除され、収容所に入った。


収容所では自活自存のために食糧供給の代償として、連合軍の要求する労務に従事することになった。
22年5月末、祖国へ帰る復員船が来た。
6月10日、日本丸に乗船し、6月29日宇品港に着いた。
似島検疫所で検疫などをすまし、7月1日宇品に上陸した。
翌7月2日歩兵第154聯隊は解散。
私たちは戦死した英霊を追悼しその遺徳を顕彰して、日本復興に挺身することを誓い合った。




撮影日・2008年12月7日



 

野口英世


場所・岡山県笠岡市吉田  吉田小学校


小学生の時、偉人伝の代表的な人だった。
城見小学校の時、文部省推薦映画を学校の講堂ですることがあったが、
その映画でも「少年野口英世(幼少名・清作)」を見たことがある。
貧しい農家に生まれ、囲炉裏で指を火傷したシーンは覚えている。

後年、猪苗代湖の湖畔にある生家を訪れたが、貧しい農家ではなくて大きな農家だった。ちょっとびっくりした想い出がある。








(野口英世記念館Web)

1876(明治9)年、福島県猪苗代に生まれた野口英世は
1歳半の時に左手に大やけどを負いましたが、
恩師・友人・家族の励ましと援助を受けその苦難を克服しました。
左手の手術により医学のすばらしさを実感し、自らも医学の道を志しました。
アメリカのロックフェラー医学研究所を拠点に世界で活躍し、
ノーベル賞の候補にも挙がりました。
1928(昭和3)年、西アフリカのアクラ(現ガーナ共和国)で
黄熱病の研究中に感染し51歳で亡くなりました。







撮影日・2021年11月28日


 
 











作成・2021年10月9日 追記・2022年1月12日