岡山県(倉敷市) |
アンデルセン 場所・倉敷市寿町 チボリ公園(廃園) チボリはたった11年間の公園だった。 1998年が・・・・・・・2,941,021人 この写真の2005年が・・・910,196人、 すでに集客が1/3まで落ちている。 話題で人が集まるのは最初の2〜3年まで。 次はリピーターをどう呼ぶかだが、それが叶わなかった。 当初は岡山操車場跡、 それに比べると倉敷駅の北口の方が便利。 値段は、・・・忘れたが、本場ではデンマーク人がほぼ料金を気にせずに入園するイメージがあったので、高いと感じた。 園内設備は、ほぼ完ぺきなまでにデンマークやアンデルセンの世界を再現しているように思った。 自分が入園した日は、とにかく人がいなかった。 幼稚園か保育園が集団で入園していた。そこだけ人がいた。 他にはアベックとか家族もいなかった。 北欧のデンマークの街角。 人がなく、寒々しかった。 岡山市長が立案を宣言し、新聞をにぎわせ、そして市長は落選した。 その後、 笠岡湾干拓地もうわさの域だが、候補地の一つになった。 いろいろあって、最後に、倉敷紡績万寿工場に決まった。 チボリ公園完成後はデンマークのチボリとお金でもめて、 とにかくトラブルがつきものの倉敷チボリ公園だった。 チボリ公園が廃止後、何年か倉敷駅北口は防犯が心配なほどさびれた。 今は「みらい公園」「倉敷アリオ」「三井アウトレット」が共存して、賑わいが戻った。 撮影日・2005年3月4日 |
三木行治 場所・倉敷市福田町 水島緑地福田公園・三木行治記念園 ブロンズ 作者 富永直樹 像高 350cm 台高 80cm 昭和63年12月 岡山市出身(明治36〜昭和39年) 岡山文庫 岡山県知事(昭和26〜39年) 在任中水島臨海工業地帯の開発に努め「名知事」と謳われた。 岡山文庫 選挙での岡山県知事は、西岡・三木・加藤・長野・石井・伊原木と6人いるが、”桃太郎知事”と呼ばれたのが三木知事。 なぜ桃太郎知事と呼ばれたんだろうなあ? 大手饅頭知事ならわかる。 「岡山の歴史」 柴田一 岡山文庫 昭和49年発行 三木行治 岡山県知事(昭和26〜39年) 在任中水島臨海工業地帯の開発に努め「名知事」と謳われた。 昭和26年第2回県知事選で西岡知事を破って当選したのが三木行治である。 ”私なき献身”と”清潔”さでひたむきな情熱を注ぎつづけた13年余りの県政のねらいは、 農業県であった岡山県を一挙に工業県に飛躍させることであった。 「わが国の今後のあり方が、その多くを工業力に期待するといっても誤りないと思われる。 したがいまして、大企業の育成誘致にはもっとも努力を捧げたい」 この構想は池田勇人内閣の高度経済成長政策を先取りしたものであり、 それは水島臨海工業地帯の建設に具体化された。 難関があり、その第一が工業用水の確保。 高梁川上流に河本ダムをつくり、支流に新成羽ダムの工事を起こした。 第二は10万トン級タンカーが横づけできる港湾の問題である。 当時の水島港は水深2.6m、それを16mにし、浚渫土で工業用地を造成した。 第三が大企業誘致だった。 昭和32年に日本砿油、33年に三菱石油、36年に川崎製鉄の誘致をとりきめた。 その間、日本鉱業、中国電力、日本瓦斯化学、東京製鉄の誘致が決定。 水島に誘致した大企業が本格的に操業をはじめた昭和35年前後から、公害問題が起こった。 都市と農村、県南と県北の所得格差がおこった。 撮影日・2013年4月4日 |
星野仙一 場所・岡山県倉敷市 倉敷美観地区 「星野仙一記念館」 星野の高校時代は、 岡山県の野球は「岡山東商」と「倉敷工業」、略して”東”vs”倉工”時代だった。 同学年に、中日の四番打者となった倉工・菱川。 一学年下に、大洋のエースだった東商・平松らがいた。 倉商も星野もまったく蚊帳の外だった。 大学を出るときは、”法政三羽烏”でもちきりだった。 その星野がプロ野球に入ってから、選手として、監督として、プロOBとして大活躍することになった。 「燃える男」「闘将」として名を残した。
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東郷平八郎 場所・倉敷市船穂町 「軍国日本の興亡」 猪木正道 中央新書 1995年発行 日本海海戦 ロジェストヴィンスキー提督ひきいる第二太平洋艦隊は、 極東で日本の連合艦隊と決戦する前に、過酷としか形容しようのない1万5.000マイルの航海をやりとげねばならなかった。 タンジールで艦隊を二分し、喜望峰経由と、旧式艦をスエズ運河経由させ、仏領マダガスカルで合流させることとした。 その間、旅順港が陥落したニュースも届いた。 食糧事情が悪化し、病人も増え、艦隊内の士気が低下した。 仮装巡洋艦の日本郵船信濃丸から、「敵艦隊見ゆ」の電報が届いた。 ロシア艦隊のウラジヴォストークへの逃走を防ぐため、東郷大将は有名なT字戦法をとり、ロシア艦隊の頭を抑えた。 バルチック艦隊のうち12隻の戦艦のうち8隻が撃沈され、4隻は捕獲された。 ロシア艦隊の人的損害は溺死を含む戦死、4830人。 捕虜は7.000人を数えた。 日本海海戦は、日本の完勝といえる。 しかし光の裏には必ず影がある。 日本海軍は1945年まで、40年間もパーフェクト・ゲームの夢を見続けた。 東郷大将も元帥となり、神格化された結果、海軍軍縮交渉では、日本の孤立化に一役買うことになる。 「教養人の日本史4」 社会思想社 昭和42年発行 奉天会戦と日本海海戦 旅順は参加した兵力13万人、そのうち5万9千人が死傷するという犠牲があった。 黒溝台で9千人の死傷者を出した。 日本軍は決戦に出てロシア軍に大打撃を与え、戦局を終わらせるほかない情勢に立たされた。 兵士も補充する見込みもつかないくなり、兵器の製造と補充も限界に達した。 砲弾も全軍で20数万発を残すだけとなった。 奉天での決戦を企てた。 戦闘は一週間におよび、日本軍の死傷は7万、ロシア軍は9万にのぼった。 ロシア軍はハルビンでの決戦を期して退却し、日本軍は奉天を占領した。 しかし、追撃する余力はなかった。 ロシア軍は、バルチック艦隊の応援を得て、ハルビンで日本軍を殲滅する作戦に出た。 対馬沖で東郷平八郎の率いる日本の連合艦隊に、二昼夜の激戦の末、19隻を撃沈された。 講和交渉は急速に本格化した。 戦争に動員された日本兵は107万人、うち死傷者だけでも21万人であった。 撮影日・2006年3月4日 |
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作成・2021年10月9日 追記・2021年10月24日