銅像の人  兵庫県
 

大石内蔵助 

場所・兵庫県赤穂市  赤穂城跡

日本人がいちばん好きなお話の一つ「忠臣蔵」。
映画の大石内蔵助では片岡千恵蔵、松本幸四郎、長谷川一夫の印象が強い。






「教養人の日本史3」  脇田修  現代教養文庫  昭和42年発行

赤穂浪士

元禄14年(1701)松の廊下から1年10ヶ月をへた翌年12月14日、
元城代家老大石良雄を首領とする赤穂浪士の一団が吉良邸に討ち入り、義央の首をあげるにいたって、
この赤穂事件は、大きな波紋をよぶことになった。

赤穂浪士の行動は、賛否両論にわかれた。
多くの者は、元禄大平の世に主君の仇を討ったことは、武士道の精華と賛美した。
幕府は、忠の奨励と、彼らが徒党を組み邸内に乱入し、明らかに法を破ったことの板挟みになって苦慮した。
結局、名誉ある死、切腹を賜うことに処分を決定した。


切腹の直後、早くも芝居が上演され、やがて「仮名手本忠臣蔵」が成立し、
独参湯(どくじんとう)といわれるほどの人気をもちつづけた。





赤穂市最大のイベント「義士祭り」、この年の大石内蔵助役は日活映画の大スター”高橋英樹”。↑(真麻さんのオヤジ)

すごい人気だった。性別、年齢を問わず。
ただし黄色い声援は、女性だけで、しかもすべて年増の人だった。




撮影日・2018年12月14日


 


千姫 


場所・兵庫県姫路市  姫路城






「千姫様」  平岩弓枝  角川書店  平成2年発行 

千姫様


冬の陣が終わったとたんに、あっという間に外堀、内堀を埋め、
二の丸、三の丸を打ち壊したから、本丸はまるで裸同然のみすぼらしい姿になった。
秀頼が口惜しげにいうのを、千姫は泣きたい気持ちで聞いていた。


・・・・

「貴公は坂崎出羽守どのではないか」
坂崎出羽守と呼ばれた男が、千姫を見て土に膝を突いた。
「姫君には、よくぞご無事で・・・坂崎出羽守、御案内申し上げる。」

「よく戻って来た。さぞかし怖い思いをしたであろうな」
この孫娘に会うのは七歳の時以来だと家康は思った。

 
桑名城で、千姫と本田忠刻の華燭の典がとり行われて後、
人々の耳目を驚かせたのは、坂崎出羽守が乱心のため、家臣によって殺害されたが、
将軍家の格別の思し召しをもって坂崎の家は取り潰しにならずにすむらしいということであった。


忠刻との初夜で、千姫は、はじめて自分の女が花開いたように思った。
夫の愛撫に我を忘れ、取り乱し、慎みをかなぐりすてて絶叫する夜が重なって、
千姫はさながら牡丹の花のようなあでやかさであった。


秋、本多家は将軍秀忠より姫路へ国替えを拝命した。
更に、千姫の化粧料として十万石を忠刻に与え、
「何事も、東照大権現様の御遺命である。
白鷺城は、千姫にふさわしい名城、本多家によって、より美しい城に仕立てるように・・・」
との御沙汰があった。

千姫が幸千代を出産し、御城内は無論のこと、播州の津々浦々まで、祝賀の太鼓が打ち鳴らされ、
百姓、漁民に至るまで仕事を休み、町々の主だった者には御城内から祝い酒が下されるといった大賑わいになった。
「これで我が本多家は万々歳」
・・
幸千代は三歳の愛らしい盛りに亡くなった。
夫婦の夜が、前にも増して濃くなって、やがて千姫はみごもった。

夫の死を知った時、千姫は狂乱した。
老いた父が、若い息子の死を見送るのであった。
しかも、その息子には跡継ぎの嫡子がいない。
家光の姉への思いで千姫の江戸へ帰ることが決まった。



弟の家光の長男竹千代(4代将軍家綱)の母代わりとなり、千姫はまさに徳川宗家の感があった。
家光は48歳の生涯を閉じ、千姫は55歳で弟を見送ることになった。

千姫が生涯を終えたのは、寛文6年2月6日のことで、70歳の古希を迎えた年の事であった。
千姫の死に対して、諸大名は総登城し、将軍に弔意を述べた。







撮影日・2018年12月14日


 


山鹿素行 


場所・兵庫県赤穂市  赤穂城跡
制作・作者不詳
設置・昭和33年


山鹿素行
1622〜1685
江戸前期の儒学者・兵学者。
会津生まれ。
官学である朱子学を批判したため、播州赤穂藩に流される。
配流中に藩主や重臣に尊敬され、この間に素行の学問を代表する著を完成している。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行






「日本史人物列伝」  奈良本辰也  徳間文庫  1988年発行

山鹿素行

義士の行動に大きな影響を与えた山鹿素行は、
軍学者であるとともに、すぐれた儒学者であった。
官学である朱子学を批判して古学を唱導したために、赤穂の浅野家に預けられ、
そこで配所の月を眺めながら長年月を過ごしたことがあった。
その時、家老であった大石家とはとくに交友が深く、
内蔵助にも大きな影響を与えていたと思われる。
素行が唱えた武士道は、
江戸時代の武士の経典にように信じられたが、
それは、それまでの武士道の考え方とは少し変わっていた。
素行の武士道をみると、
「人事を尽くして天命を待つ」ということばがそのまま通用する教えであった。
泉岳寺でもすぐに腹を切らないで、
後は公儀の決定に従うというやり方は、まさに素行の教えの実践であった。












撮影日・2018年12月14日


 
 


夢千代

兵庫県美方郡新温泉町浜坂 (湯村温泉)



湯村温泉は
湯けむり、川おと、山なみの風情がある温泉地。




小学生の時、夕方決まったようにラジを付けて聴くラジオドラマがあった。
それがラジオ東京(TBS)の人気番組「赤胴鈴之助」。

この子供向けのラジオ番組の出演者(声優)から二人の有名人が生まれた。
山東昭子(語りて)は現・参議院議長に、
吉永小百合(さゆり役)は大女優になった。


大女優の吉永小百合は主に映画であって、テレビ出演は只一つの連続ドラマを除いて印象が薄い。
それが「夢千代日記」。

今から40年ほど前のテレビドラマ。
すでに吉永小百合は国民的人気の大物女優になっていた。


(顔は小百合ちゃんソックリの銅像。おやや、夢千代像でなく平和の像になっている)


薄幸な役だったが、小百合主演とあって但馬の山あいの温泉地は、一挙に有名温泉に押し上げられた。






湯村温泉公式観光サイト
湯けむり荒湯 〜夢千代の里〜

山陰の名湯「湯村温泉」

場所
岸田川の支流、春来川のほとりに湧く日本屈指の高熱温泉である「湯村温泉」。

嘉祥元年(848)と言われる、今からおよそ1150年前に慈覚大師によって発見されたと伝えられている古湯であり、元湯は「荒湯」と呼ばれ98度の高温泉が毎分470リットルも湧出しています。 「荒湯」で温泉たまごを茹でる観光客の姿は、湯村温泉独特の風景をつくり出しています。
深いボーリングを必要とせず数メートルの深度で湧出しており、需要量に比べて湧出量の豊富な温泉のため、旅館だけでなく各家庭にも配湯され、湯村の生活に欠かせないものです。

嘉承元年、湯村温泉の開発指導を行った慈覚大師は、天台宗第3世の座主。山陰地方を通りこの地に立ち寄ったとされています。









撮影日・2009年7月4日

 
 
 

中部幾次郎

場所・兵庫県明石市  明石公園


小学生の頃、魚屋さんが自転車に乗って二日に一度、魚を売りに来ていた。
母が買うのはいつも決まって、いちばん安いクジラだった。

小学4年生の頃、学校給食が始まった。
決まったように出てたのがクジラ肉の揚げ物だった。
後年”竜田揚げ”と呼ぶことを知った。

ラジオ放送があった。『赤胴鈴之助』
始まりは・・・赤胴鈴之助だっ!で、「日本水産提供、赤胴鈴之助」
♪日水ニッスイ、日の丸じるし・・・。

いっぽう、プロ野球では大洋ホエールズが優勝したりした。
あのミサイル打線の大毎を破って日本一。

南氷洋で活躍する捕鯨船、
少年たちの夢は、捕鯨船のキャッチャーボートの射撃手だった。


キャッチャーボート

南極海での捕鯨が盛んだった20世紀半ば、太地町からは、多くの名砲手が輩出し、
多いときで年間300人近い男たちが乗組員として南極へ出港したという。

「おクジラさま」 佐々木芽生  集英社 2017年発行 









公益財団法人 山口県ひとづくり財団

中部幾次郎
明治・大正・昭和時代の実業家・政治家
1866(慶応2)年?1946(昭和21)年

1866(慶応2)年、播磨国明石東魚町(現 兵庫県明石市)で「林兼」という屋号で鮮魚仲買運搬業を営む中部家の子として生まれました。
当時、鮮魚の運搬は帆船がほとんどだった中、幾次郎は蒸気船を使った運搬を始めて成功します。
1905(明治38)年には日本初の発動機付き鮮魚運搬船を建造し、その後、活魚の買付を韓海漁場にも広げます。
1924(大正13)年には「株式会社林兼商店(後の大洋漁業。現 マルハニチロ株式会社)」を設立。
翌年、拠点を下関に移します。
1936(昭和11)年、日本初の国際捕鯨母船を造り、南氷洋捕鯨を始めます。
水産業の関連業種を全て同系列に置いて運営することを経営方針として造船から水産物の保存冷蔵工場まで運営。
新しいことを先取りして日本の水産界の発展に貢献しました。
また、下関商工会議所会頭を長年務めたほか、1946(昭和21)年には貴族院議員となりましたが、その年、満81歳で亡くなりました。







日本遠洋漁業の株式会所の成功

明治33年(1899)に設立された日本遠洋漁業株式会社(のち東洋漁業→東洋捕鯨→日本水産)は、
ノルウェー式砲殺捕鯨法の発展にとって牽引車のような役割を果たした。
設立者の長州人・岡十郎は、品川弥次郎、福沢諭吉、曽根荒助などの忠言により10万円の資本を集め、
山口県先崎で日本遠洋漁業を設立した。
日露戦争でライバルのロシア砲殺捕鯨船は日本海軍によって拿捕された。
ロシアの拿捕船を購入、自由に操業し、捕獲量245頭、会社は好景気に沸いた。
翌明治38〜39年も朝鮮海域は独断場で292頭。
東洋漁業は陸前鮎川、銚子、館山、紀州大島、土佐甲浦、土佐清水、阿波宍喰に事業所を事業所をつくった。


大型沿岸砲殺捕鯨の発展

明治41年には朝鮮海域と九州、土佐から三陸沿岸にかけて、そこで操業する砲殺捕鯨船も28隻に達し、
捕鯨会社も12を数えた。
捕獲増と製品乱造で価格が低迷。
特許制度で総隻数を30に制限。
東洋漁業は6社合併で東洋捕鯨、林兼商店は大正7年土佐捕鯨を買収し捕鯨事業に進出。
昭和18年、水産統制令により日本水産・大洋・極洋の三大会社が沿岸砲殺捕鯨をリードする。
隻数制限は空文化した。
 
沿岸砲殺捕鯨が鯨の減少によって先細りになっていくのと反比例ぢて、捕鯨業全体の中で、極洋における母船砲殺捕鯨の担う役割が大きくなっていった。
とくに捕頭数がピークに達した昭和30年代が、日本砲殺捕鯨の全盛期であった。



戦中戦後の沿岸砲殺捕鯨

沿岸砲殺捕鯨は、日本船員の多くが召集されたため、かわって朝鮮半島出身者が多数乗船している。
戦後、いち早く捕鯨は復興した。
ミンク鯨など小型鯨を対象とする捕鯨も盛んになった。
捕獲数も昭和26年〜42年の間は年間1.000頭ほどで安定していた。
しかし次第に大型船に太刀打ちでくなくなり昭和44年以降は、網走、鮎川、和田、太地、などの拠点に合わせて7〜9隻の小型砲殺捕鯨船が登録されるだけになった。
現在は国際条約の規制外であるゴンドウ鯨や槌鯨の漁を続けている。


「くじら取りの系譜」 中園成生  長崎新聞新書  2001年発行








(しものせき物語)

下関

〜江戸期の古式捕鯨(長州捕鯨)と下関の役割〜
江戸時代に入り、「くじら」の通り道であった長門、萩周辺の各浦に鯨組が置かれ、
沖を通る「くじら」を勢子舟(せこぶね)と呼ばれた小船で追いかけ、銛を打ち込んで捕獲する古式捕鯨(長州捕鯨)が行われます。
当時、北前船の寄港地であった下関では、長州捕鯨で捕獲された鯨の肉、油などが下関の問屋を通じ、関西、北陸や九州各地に送られていたという記録があります。
既にこの頃から、「くじら」の流通基地としての基盤が整っていったと考えられています。



〜明治期の近代捕鯨発祥地〜
明治期に入り「くじら」の捕獲方法も、それまでの古式捕鯨から船に積んだ大砲で銛を発射し、「くじら」を捕獲する近代式(ノルウェー式)捕鯨法に変わります。
当時山口県議であった岡十郎と資産家の山田桃作が立ち上げた、日本初の近代式捕鯨会社「日本遠洋漁業株式会社」が、
1899(明治32)年に長門に本社を、下関に出張所と倉庫を置いたことから、長門と下関いわゆる山口県は、近代捕鯨の発祥地と呼ばれています。


〜戦前・戦後を通じた南氷洋捕鯨基地へ〜
「日本遠洋漁業株式会社」はその後に合併・再編等を経て、現在の日本水産につながる会社となりますが、昭和初期には対岸の北九州・戸畑に移転します。
下関ではその後、中部幾次郎が朝鮮通漁やトロール漁業等で財を成し、立ち上げた林兼商店(後の大洋漁業(マルハ)、現・マルハニチロ)が捕鯨事業に進出し、
1936(昭和11)年には南氷洋捕鯨に出漁します。
戦後は食糧難解消のため、下関の唐戸岸壁から小笠原捕鯨に出漁しますが、更に南氷洋捕鯨が再開され、
下関は捕鯨船の建造、鯨肉の陸揚げ、流通・加工等の大洋漁業の捕鯨関連産業が集積した「くじらの街」として発展してきました。
昭和30年代後半のピーク時には年間約2万トンを超える鯨肉が陸揚げされ、「くじら」は水産都市下関発展の一翼を担ってきました。
中部幾次郎は兵庫県明石出身で、下関に本拠地を移し、トロールや捕鯨事業に進出します。
大洋漁業はプロ野球球団大洋ホエールズの創設や社会貢献にも積極的に取り組み、学校への体育館建設寄贈等を行いました。

〜商業捕鯨モラトリアム(一時停止)と商業捕鯨の再開〜
1982(昭和57)年には国際捕鯨委員会(IWC)で商業捕鯨の一時停止が決定され、商業捕鯨から調査捕鯨に移行しますが、
下関は調査捕鯨船(目視採集船)の基地として「くじら文化」をつないできました。
その後も、下関は商業捕鯨再開に向け他の自治体と連携し、様々な活動を行いながら捕鯨船団の基地化を目指してきましたが、
2019(令和元)年6月末に日本政府は国際捕鯨委員会(IWC)を脱退し、7月1日から31年ぶりに商業捕鯨が再開されました。
下関は国内における唯一の沖合商業捕鯨基地として、
次世代に下関が誇るくじら文化を継承するとともに「日本一のくじらの街」を目指し、捕鯨母船「日新丸」の代替船建造等、捕鯨船団の基地化に取り組んでいます。

〜下関のくじら文化〜
下関から島根県の益田周辺までの日本海側では、古くから節分にくじらを食べる風習があります。
「大きなものを食べて大きく年をとる」、「大きなものを食べて邪気を払う」という事柄にちなんでと言われています。
下関は「くじら」の流通基地としての食文化が根付いており、
市内には「くじら」の専門料理店や専門小売店もあり、1958(昭和33)年には大洋漁業の鯨の直営レストラン「日新(※7)」が置かれていました。
マルハブランドの生産拠点でもあった下関では、「くじら」のハム、ソーセージ、缶詰等も生産され、
昭和30年代には「くじら」のソーセージの年間出荷額が約40億円にものぼっていました。
現在でも市内の量販店や飲食店でも鯨肉や料理を扱っている店舗も多く、下関のくじら文化を支えています。




撮影日・2009年8月15日














作成・2021年10月9日 追記・2021年10月19日