銅像の人  兵庫県
 


太閤秀吉 


場所・兵庫県神戸市北区有馬町  有馬温泉








「歴史読本」 昭和56年7月号 新人物往来社

秀吉とねねの歩んだ道 高橋紀比呂

天正11年(1583)4月、秀吉は柴田勝家を賤ケ岳で破り、
9月から大坂城普請に着手する。
お禰は姫路を離れて大坂に移る。

天正13年正月、秀吉とお禰は摂津の古湯有馬へ湯治にでかけた。
天下平定の目途もようやくたち、糟糠の妻をねぎらう旅であったろう。
19日には茶会を催した。
2月5日お禰が同温泉の薬師堂建立費を寄進している。

一時荒廃していた有馬温泉の復興に助力した秀吉をしのび、毎年11月、
有馬瑞宝寺公園で大茶会が開かれている。




(瑞宝寺公園)




撮影日・2021年11月30日
 


ねね 

場所・兵庫県神戸市北区有馬町  有馬温泉




秀吉とねねの歩んだ道 高橋紀比呂



天正15年、京都の聚楽第が完成し、秀吉は大政所、北政所らともに大坂城から移った。

やがて、秀吉の側室中に淀殿が加わり、

天正17年鶴松、文禄2年秀頼を生む。

北政所は、この二人を実子同然にあつかった。

秀吉は、奥の支配を北政所にまかせ、陣中に淀殿ら側室を呼び寄せるときも、

かならず北政所を通して命を伝えている。



文禄の役のおり、秀吉は肥前名護屋から北政所に

「大坂へ帰ったら、そなたをゆっくり抱きしめ、物語などしたいものだ」

と書き送り、老妻宛とは思えない、艶やかな筆で北政所の心をくすぐっている。



文禄2年、秀吉はふたたび北政所を伴って有馬温泉に行き、来し方をふりかえっている。



慶長3年3月醍醐の花見が行われた。この席上盃事の順序をめぐり、淀殿が松の丸と争い北政所の仲裁で事なきを得た。

このとき、秀吉の病状はかなりすすんでいた。

祈祷もむなしく8月18日伏見城で一生をとじた。



関ケ原合戦後の慶長8年北政所は高台院の称号を朝廷から下賜され、京都東山の高台寺で寛永元年(1624)、74歳の生涯をとじた。


 「歴史読本」 昭和56年7月号 新人物往来社







撮影日・2021年11月30日

 



法然少年像 

場所・兵庫県神戸市北区有馬町  有馬温泉





(Wikipedia)

法然上人

法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。
はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、
承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、
のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空げんくう、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。

浄土宗では、
善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。

浄土真宗では、
法然を七高僧の第七祖とし、法然聖人/法然上人、源空聖人/源空上人と称し、元祖と位置付ける。
親鸞は『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。





撮影日・2021年11月30日
 



行基像 

場所・兵庫県神戸市北区有馬町  有馬温泉





(Wikipedia)

行基

行基(天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日))は、飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した日本の仏教僧。
朝廷が寺や僧の行動を規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止していた当時、その禁を破って行基集団を形成し、畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を説いた。
併せて困窮者の救済や社会事業を指導した。
布施屋9所、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を各地に整備した。
当初、朝廷から度々弾圧や禁圧を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。
その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。
この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。

日本地図を作成したとの伝承もある(行基図)。



撮影日・2021年11月30日












xxx像 


場所・xxxx











撮影日・xx年xx月xx日

  






 
 












作成・2021年2月20日 追記・2022年1月12日