銅像の人  京都府
 

親鸞聖人像 

場所・京都府京都市東山区五条橋東 大谷本廟



あの時代の90歳は、今でいえば110歳くらいだろうか?
すべてにおいて、常人とはスケールがまるっきり違っている。






親鸞

鎌倉時代の初期から中期には、六つの宗教が、それぞれ三つの救いをひっさげて宗教活動をおこす。
つまり、
念仏(なむあみだぶつ)と、禅と、題目(なんみょうほうれんげっきょう)の三つの救いを説く。

念仏によって幸福になれるのだという立場が、法然・親鸞・一遍。
禅は栄西、道元。
題目による救いは日蓮がとく。
この6人の教祖の流れから浄土宗、真宗、自宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗が形成される。

叡山というのは鎌倉仏教の母体になっています。
親鸞は叡山で一介の役僧を20年間いやというほど体験する。

関東でも20年、農民の中で生活している。
越後で7年。
越後で結婚する。

最期まで責任を持つ、納得のいくまで問いただしてゆく、
これを親鸞は90年の生涯の間、貫きとおした。


「歴史よもやま話・上」  池島信平  文春文庫 1982年発行







撮影日・2008年11月20日


 


牛若丸と弁慶像 


場所・京都府京都市東山区  五条大橋たもと



♪京の五条の橋の上 大の男の弁慶が・・・


童謡のイメージとは、だいぶんかけ離れた「牛若丸と弁慶」の石像が五条大橋のたもとに建っている。

押し相撲力士の立ち合い!のように見える像。





「城と街道」 南條範夫  中公文庫  昭和56年発行

源九郎義経は極めてロマンチックな悲劇的英雄の一典型である。
彼が生まれたのは平治元年、父義朝が戦いに敗れた直前である。
翌年義朝は殺された。
数えて2歳の義経は母の懐中に抱かれて、追手の目を逃れねばならなかった。
生まれながらにして既に悲劇の主人公としての運命におかれている。

夜空に上げられた花火のようにはかない栄光の生涯であり、
一閃尾を曳いて消え失せた流星のように切ない輝きをもっているものといってよい。

天狗に武芸を習ったり、五条橋で弁慶を相手に軽業師のような技をみせたり、というのはすべて、
お伽噺とみてよいであろう。

ただ、
父義朝の負死後、母常盤が平清盛の寵を受けた代償として鞍馬寺に預けられたこと、
15,16の頃、参詣に来た奥州の金商人吉次なる者に助けられ奥州に下ったこと、藤原秀衡に歓待されたこと--
は、ほぼ誤りのない事実であろう。











撮影日・2016年12月2日

 
 


法然聖人像 


場所・京都市   知恩院





【知恩院HP】

法然上人とお念仏

法然上人は平安の末、長承2年(1133)、美作国久米南条稲岡庄に押領使・漆間時国の長子として生まれ、幼名を勢至丸(せいしまる)といいました。勢至丸が9歳のとき父・時国が夜襲され、不意討ちに倒れた時国は、枕辺で勢至丸に遺言を残します。
「汝さらに敵をうらむ事なかれ。これ偏(ひとえ)に先世の宿業(しゅくごう)なり。もし遺恨(いこん)をむすべばそのあだ世々に尽きがたし。早く俗をのがれ家を出て、我が菩提を弔い、みづからが解脱を求めよ」

この言葉に従い勢至丸は菩提寺で修学し、その後15歳(一説には13歳)で比叡山に登って剃髪受戒、天台の学問を修めます。久安6年(1150)18歳の秋、黒谷の慈眼房叡空の弟子として法然房源空(ほうねんぼうげんくう)の名を授けられました。叡空のもとで勉学に励んだ法然上人は「智恵第一の法然房」と評されるほどになり、以後、遁世(とんせい)の求道生活に入ります。









撮影日・2016年12月2日


 
 

マキノ省三先生像

場所・京都府京都市北区等持院北町




「日本映画の父」として有名。
銅像は太秦に近く、昭和初期には等持院周辺に撮影所が集中してあったそうだ。


「時代劇は死なず!」  春日太一  集英社新書 2008年発行

1910年、京都の興行主・横田木之助率いる横田商会が京都で初めての撮影所=二条城撮影所を開設、
本格的な映画製作が開始される。
ここで≪日本映画の父≫と呼ばれる映画監督・牧野省三と≪日本最初の映画スター≫尾上松之助の『忠臣蔵』が製作され、
12年法華堂に移転してからは両者のコンビで”三日に一本”というハイペースで忍術映画が製作されていった。

同年横田商会をはじめ四大映画会社が統合され日本活動写真=日活が誕生している。
1923年関東大震災で関東から移転もあり、京都は日本の映画製作の中心地となり、撮影所が林立していった。

1930年代にはいり、映画はそれまでのサイレントからトーキーへと技術革新が求められるようになる。
そうした中、牧野省三の子・マキノ正博はマキノ・トーキーを太秦に開設したが,うまくいかず40年松竹に買収された。






マキノ省三先生像【碑文】

生涯を映画の発展と前進に尽力し日本映画の父と仰がれたマキノ省三先生が
大正10年に最初の撮影所を創設せられたのは実にこの等持院の地でありました
このたび先生の銅像を太秦より迎えましたのは
ひとえに日本映画史の一頁を飾るゆかりの此の地に永く先生の遺徳を顕彰したいとねんずるからであります
昭和45年7月25日
マキノ省三先生顕彰会




映画とマキノ

明治36年、アメリカの富豪モルガンが祇園の芸妓お雪を落籍した。
お雪は、はじめ応じなかったがモルガンの熱心に、まわりが身請け金10万円ときりだし、
相手があきらめると思ったらしい。
新聞はただちに”10万円の貞操”と書きたてた。
牧野はこの身請け話を一夜漬で劇に仕上げ、翌日千本座で上演、大当たりをとった。
そして明治40年に「本能寺合戦」を監督、映画製作の第一歩をふみだした。
2年後、尾上松之助が横田の専属となり、”目玉の松ちゃん”は、たちまち大衆の人気をさらった。

牧野は大正14年トーキーが発明されると、昭和3年に国産化の研究所をつくった。

大正・昭和にはいると、映画は娯楽の王座となった。
大正11年には坂東妻三郎がマキノ=プロに入社し、
月形龍之介・嵐寛寿郎・市川右太衛門・片岡千恵蔵らがこれにつづき、
長谷川一夫が林長二郎の名でデビューした。


「京都府の歴史」 赤松・山本共著 山川出版社 昭和41年発行  





撮影日・2009年11月27日


 
 

紫式部像

場所・京都府宇治市宇治橋西詰


紫式部

「日本史探訪5」 角川文庫 昭和59年発行

『源氏物語』はおよそ80年に及ぶ大河小説である。
華麗な絵巻物をくり広げるように、優雅な宮廷の社交生活が展開し、
おもな主人公は、その一生を、
詩と音楽と恋愛だけにささげているかのように見える。




たとえば光源氏は、12歳で最初の結婚したのち、40歳近くまでの間に10数人の女性との恋愛遍歴がある。
しかし光源氏は、たとえその女性がどんな女性であっても、最後までそれらの女性を見捨てることがなかった。
光源氏が、当時の女性の読者にとって理想の男性になったゆえんである。
そして、みやびな描写に託して、この小説は、
時の流れと人生の真実を描こうとした。
そこに紫式部の美意識があった。






昭和41年、パリのユネスコ本部は、この紫式部を、日本人としてただ一人、世界の偉人に選んだ。
シーザーやゲーテと並んで、世界の文化に貢献したというわけである。
紫式部は世界的な存在となった。






撮影日・2010.4.8




 











作成・2021年10月9日   追記・2021年10月15日