銅像の人  滋賀県
 


紫式部像 

場所・滋賀県大津市 石山寺


後宮の光と影『源氏物語』

「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めき給ふありけり」

女御は后の下で当時4〜5人、
更衣はさらにその下の階級で20人前後。
要するにハーレムである。
前者は大臣の娘、後者は大納言の娘という出身だが、その中にも家柄の差がある。
問題の更衣(桐壷)は、家柄はさほどではなかったが、すぐれて寵愛を受けていた。

閉鎖的な女性社会だから、陰湿なことはおよその見当がつく。
「参う上り給ふにも、あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿、ここかしこの道に、 あやしきわざをしつつ、
御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり」

桐壷が帝の寝所へ通う廊下に、汚物をまきちらして妨害したというのである。
そればかりか、中廊下の出入り口に錠をおろして閉じ込めてしまったことすらある。
「みやび」などとは縁遠い、重苦しい人間関係である。



重苦しいと言えば、
瀬戸内晴美さんが、当時の女性たちが身長を一尺も越すような髪をどう扱っていたのか、という疑問を呈していた。
洗髪しようものなら、重くて痛くていられない。
男と寝るときも、興奮したらしわくちゃになって、躰にまきついてしまうだろうというのである。
このようなことを調べた歴史家も、一人もいないらしい。

長い長い黒髪が裸身にまとわりついているさまは、
なかなかエロチックにはちがいないが、
女性の立場からすればわずらわしかろう。

昼の装束にしても、極端な場合は20枚も重ね着をするなど、きわめて非活動的なものだった。
およそこうした生活様式から想像されるものlは、発散の機会もなく内へ内へとこもっていく感情であろう。
単純な嫉妬は怨恨となり、燃えさかるような瞋恚(しんい)に成長する。
嫉妬に目がくらんで廊下に糞尿をまきちらすなどは、さして異常なことでもなかっただろう。

桐壷はこのような恨みの総攻撃を浴びて、光源氏を生み落とすと間もなく死んでしまう。


「日本の書物」 紀田順一郎 新潮文庫 昭和54年発行






女性愛書家の生涯『更級日記』


后の位も何にかわせむ


本が読みたくて----死ぬほど読みたくて、神にまで祈るというような気持ちは、出版物があふれている現代にあっては想像もできまい。

だが、菅原孝標の女(むすめ)はそうだった。
千年も前の人々は、本が読みたければ伝手を求めて借りるほかはなかった。
ついに等身大の薬師仏をつくり、手を洗い清め、人の見ていないときに
「京へ上らせください、物語の、あるかぎり見せ給え」と額をつき、祈ったという。

『更科日記』を読んで、まず胸が熱くなるのは、この純な心の女性が書物に寄せる、深く大きな愛情である。


「日本の書物」 紀田順一郎 新潮文庫 昭和54年発行










撮影日・2015年12月14日


 


賤ケ岳無名武将像 


場所・滋賀県長浜市 (賤ヶ岳古戦場) 


美しい余呉湖や賤ケ岳からの眺めは秀逸していた。

ところどころ武将や兵が現われ、歴史の舞台を感じさせる景勝地だった。





【余呉観光情報】

賤ヶ岳合戦

羽柴秀吉と柴田勝家が、織田信長の後継者を競った
まさに天下分け目の戦い



約400年前、余呉湖を血で染めるほどの激しい戦いがここで繰り広げられました。
今はもう、その美しい余呉の風景の中に、戦いの爪あとを見出すことはない。
けれど、城跡や砦跡へと続く道を息を切らして登ると、山野を駆けて戦った武士たちの荒い息づかい、
鎧や具足の重みが伝わってきます。
残された石碑やゆかりの品々を目の当たりにすると、歴史の一場面が厳然と語りかけてきます。









撮影日・2015年8月4日

 
 


羽柴秀吉 


場所・滋賀県長浜市






秀吉の長浜城

【長浜城博物館HP】
 天正元年(1573)9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、はじめて城持ちの大名に出世しました。

 翌年、今浜(現在の長浜)が交通の要衝であると考え、お城を造り始めました。築城工事のため領内の住民を集めたり、竹生島(ちくぶしま)の材木を運んだりした古文書は残っていますが、当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことがたくさんあります。
 天正3年秋頃、お城が完成すると地名を今浜から「長浜(ながはま)」に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、天正10年(1582)まで住んでいました。 この間、秀吉はこの長浜城から信長の先兵として北陸攻めや中国攻めへと出発していったのです。









撮影日・2011年8月6日

 
 
 


山田豊三郎像 


場所・滋賀県大津市  大津湖岸なぎさ公園.


滋賀県で、おそらく、もっとも綺麗であり、市民や観光客に親しまれている場所に、一人の銅像が立っている。


Wikipedia
山田 豊三郎は、日本の政治家。
第21代大津市長。 市助役などを務めた後、6期にわたり大津市長を務め市の都市整備などを行った。
死没:2009年7月18日






(滋賀報知新聞)

大津市長選の争点を洗い直す
2015年12月3日(木) 

浜町にある琵琶湖ホテル裏の湖岸には、ある人物の銅像がひっそりと建っている。
その人物は、六期二十四年間、大津市長を務めた故・山田豊三郎氏である。
島の関から晴嵐一丁目まで延長四・八キロに及ぶ「大津湖岸なぎさ公園」は、紛れもなく同氏の「遺産」だろう。
しかし、その一方で長期政権の“功罪”が相半ばしている。
なかでも大きな功罪に挙げられるのが「自治会問題」である。
山田氏は、長く市自治連合会長として君臨した故・山本俊一氏と二人三脚で、県内でも屈指の自治会のピラミッド組織を作り上げた。
自治会は行政に協力する一方で、市から報償金を受け、いざ選挙になれば山田氏の集票マシンとなった。
山本氏は「市長いるか」と秘書課をフリーパスで出入りし、隠然たる力を職員に見せつけもした。







(Wikipedia)

山田 豊三郎
やまだ とよさぶろう

1922年10月13日 - 2009年7月18日)は、日本の政治家。第21代大津市長(1980年 - 2004年)。
市助役などを務めた後、6期にわたり大津市長を務め市の都市整備などを行った。
「豊さん」、「山豊さん」のあだ名で親しまれた。
大津市名誉市民。

終戦後、1945年12月に大津市役所に入所。
1972年6月から助役となった。
大津市長、1980年4月15日、無投票で初当選。
山田は市長として、「市民の心を心とする市政」を信条とし、「三つの理念と10の政策」をスローガンにした。
道路、駅や下水道や産廃施設などのインフラストラクチャー整備、老人ホームなど地域福祉施策、小中学校の整備などを行った。
また、世界水フォーラムや日本女性会議などの誘致も行った。

山田は非常に高齢で、あまりにも多選されたため多くの議論となった。
山田が在任中に何度も、市長選挙では最低投票率が更新された。
長期市政を支えた市の自治会との癒着も議論を呼んだ。特に市政を支え続けた、自治連合会長の山本俊一とは「刎頚の友」と呼ばれた。
市議会の与党会派も勇退勧告を出していた。しかし、翌年1月には考えを捨てて出馬を決意。
2000年の選挙に出馬して6選した。
2009年7月18日、肺炎のため大津市の病院で死去。86歳没。




撮影日・2012年



 
 











作成・2021年10月9日 追記・2021年10月19日