銅像の人  岩手県
 

原敬像 

場所・岩手県盛岡市内丸  県公会堂前


原敬

安政3年(1853)、岩手郡本宮村に生まれる。
井上馨に知られ外務省にはいる、中国・フランスに駐在、
その才能は広く内外に知られたが、大隈外相とあわず農商務省に移り、
ここで陸奥宗光に知られ局長となり、日清講和会議の当時は次官に登用された。
しかし大隈が外相となるや辞任し、野にくだり大坂毎日新聞編集長となり、
特異の論陣をはって毎日新聞の紙価を高めた。

明治33年、伊藤博文政友会を創立するやまぬかれて幹事長となり、伊藤内閣の逓信大臣に任ぜられた。
36年盛岡より衆議院議員に当選し、この地区は模範選挙区と称せられるにいたった。
以来、内務大臣となること3回、大正6年政友会総裁、大正7年原内閣を組織し、
大正10年11月4日、東京駅頭で中岡良一のために刺殺されるまで、首相として第一次大戦の戦後処理に大いに業績をあげ、
再三授爵の沙汰があったが、政治信条として華族を浴せず、
わが国最初の平民宰相として、長く政界の範となった。



「岩手県の歴史」 森嘉兵衛  山川出版社 昭和47年発行   





「首相列伝」  学習研究社  2003年発行

原敬

大正7年(1918)に成立した原敬内閣は、わが国初の本格的政党内閣とされる。
それは
原が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによるものであり、
また閣僚も陸・海・外の三相以外はすべて政友会会員があてられたためである。

原内閣の政策は、
外交は対米英協調主義、
対華二十一か条要求などで悪化しいた中国との関係改善を通じ、英米との協調を図ろうというもの。
援段政策(段祺瑞を援護する政策)を早々に打ち切った。

第一次世界大戦のあとのパリ講和条約で、国際連盟が決められ、日本は理事国となった。
しかし、シベリア出兵の撤兵が進まなかった。

選挙権制度を改正し直接税10円以上から3円以上に引き下げた。

山県との正面衝突を避けながら、切り崩した。

大正10年11月4日、東京駅で刺殺された。
原亡き後、政党政治はバランスを失ってしまう。






「教養人の日本史5」  藤井松一  現代教養文庫  昭和42年発行

平民宰相の暗殺

大正10年11月4日、原敬首相は京都での立憲政友会大会に出席するため、東京駅におもむき、駅長の先導で改札口の方へ進んでいった。
そのときとつぜん、青年が飛び出し、短刀で原の左胸を突いた。
原は駅長室にかつぎこまれ、まもなく死亡した。
犯人はその場で逮捕された。
中岡艮一といい、18歳の山手線大塚駅の見習い手だった。
一国の首相が公衆の面前で暗殺され、国民に大きな衝撃を与えた。



(犯人中岡艮一は無期懲役になったが、3度の恩赦で生きのび、昭和55年、77歳で死亡)←(首相を暗殺した犯人でありながら、天寿を全うする)これも衝撃だ??



撮影日・2018年8月6日


 


芭蕉 


場所・岩手県西磐井郡平泉町平泉



経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。
七宝散りうせて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚のくさむらとなるべきを、
四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨をしのぐ。
しばらく千歳の記念とはなれり。


五月雨の 降り残してや 光堂








金色堂が年とともに興廃する様を見て、鎌倉幕府以後再三修復された。
正応元年(1288)といえば金色堂建設後180年に当たるが、
鎌倉幕府7代将軍維康親王は北条貞時、宣時らに命じて、この堂を覆う套堂 を作らせた。
その後伊達政宗も後水尾天皇の勅を奉じて、寛永初年に修理にあたり、綱村の時代にも手が加えられた。

金色堂は中尊寺という膨大な寺院のほんのささやかな一つの堂にすぎない。
中尊寺は藤原清衡の建立したもので、堂塔、禅坊など合わせて何百にも及んだと伝えられている。

「芭蕉物語」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行











平泉

石巻を経て辿り着いた平泉は、「奥の細道」の中でも秀句がそろい、句碑も多い。
「五月雨の」句碑は中尊寺金色堂脇に、
「夏草や」句碑は江戸期の2つに加え新渡戸稲造の英訳ものと、毛越寺境内に3つ建つ。
中尊寺や高館など、発句の舞台が今もそのままに残る。


実際に雨が降ったのは前日の事で、この日は晴れていた。
だが、芭蕉は詩人としての特権で、散文的な鞘堂などは詩としてのイメージの中から取り除いてしまう。
また、勝手に雨を降らせて、暗い五月闇のなかに輝く光堂の姿を、対照させる。
作者が胸中にはっきりと光堂の存在感を受け取っている重みが感じられる。

「日本の古典に親しむ・奥の細道」 山本健吉 世界文化社 2006年発行






藤原三代
北方の王者


長い古代の歴史を通じて、陸奥は遠い道のそのはての土地、
朝廷の支配の及ばない未開野蛮な蝦夷の住む土地とされていた。
その辺境の地平泉に、忽然と出て、百年の栄華の後、忽然と消えていった政権--
それが藤原三代であった。


大佛次郎
平泉あたりは、もう「外国」だったわけですね。
一つの独立国みたいな勢力でしょうね。
金色堂は、はじめ野天にあったのですが、鎌倉時代になってから覆堂を造ったんです。
お天気のいい日なんか、実にきれいだったでしょうね。

「日本史探訪6」 角川書店編  角川文庫  昭和59年発行




撮影日・2019年6月30日



 


新渡戸稲造 


場所・盛岡市内丸 与の字橋右岸


盛岡観光協会web

新渡戸稲造像

作者:高田博厚
市役所そばの与の字橋ぎわには「新渡戸稲造像」 が建っています。
この彫刻は、高い理想に燃えながらも、現実の無理解と戦わなければならなかった稲造の、 苦悩と強さを表現した作品です。





大正13年、アメリカで排日移民法

アメリカで排日移民法が施行された。
移民法の成立は、日本人の対米感情に悪影響を与えた。
親米派、新渡戸稲造にも不信感を植え付けた。
彼は「排日移民法が撤廃されるまではアメリカの土を踏まず」と宣言した。
幣原喜重郎のように過剰反応しない人物もいたが、
昭和天皇は、
太平洋戦争の遠因は米国による移民拒否にある、と戦後語っている。

「大正クロニクル」 世界文化社 2012年発行






(Wikipedia)

新渡戸稲造

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、
1862年9月1日(文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日)
は、日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。
国際連盟事務次長も務め、著書『武士道』は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。
日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。




撮影日・2018年8月6日


 

南部利祥騎馬像跡 


場所・岩手県盛岡市内丸    盛岡城跡公園(岩手公園)
昭和19年供出




日本100名城の「盛岡城」、
石垣や、
啄木の歌碑〜不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心〜
などあり。


だが、城跡で存在感が飛び切り目立つのが、この銅像の台座。
あったであろう銅像、そして、それを囲む鉄の鎖がない。


置かれた場所といい、重厚感といい、初代南部藩のお殿様だろう。
そして、戦時中に供出され、戦後は再建もされなかった銅像跡、と思った。



しかしお殿様の銅像ではなかった。
その直系子孫で、軍人、日露戦争で戦死した伯爵で陸軍中尉。





(Wikipedia)
南部 利祥(なんぶ としなが)
1882年(明治15年)1月25日 - 1905年(明治38年)3月4日)は、日本の陸軍軍人。
最後の盛岡藩主・南部利恭の長男で、南部家第42代当主である。階級は陸軍騎兵中尉。位階勲等功級は正四位功五級金鵄勲章受章。爵位は伯爵。

1902年(明治35年)陸軍士官学校を卒業、1903年(明治36年)陸軍騎兵少尉に任じられる。
同年10月9日、父・利恭の死去により南部家第42代当主となる。
1904年(明治37年)、日露戦争が勃発し、利祥は満州の最前線で活動した。
翌1905年(明治38年)2月に中尉に進級し、近衛騎兵第一中隊第三小隊の小隊長を命じられ、最前線で指揮を執ったが、3月4日に井口嶺の戦いで銃弾を浴び戦死した。享年23。
利祥の栄誉を後世に残すため、旧盛岡藩士らによって1908年(明治41年)、岩手公園に利祥の銅像が建立された。
しかし、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)に金属供出によって撤去されたため、現在は台座が残るのみである。




(盛岡市岩手公園HP)
南部(利祥)中尉騎馬像台座
南部家42代利祥(としなが)が24歳で日露戦争において戦死し,
その功によって,功五級金勲章を受けたことを顕彰する像で,明治41(1908)年9月に建立されましたが,
銅像本体と玉垣の鎖は昭和19(1944)年に軍需資材として供出され,現在は台座のみが残されています。




撮影日・2018年8月5日


 
 
源義経 (高館)

場所・岩手県西磐井郡平泉町平泉 「高館」


三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。
秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。
先高館に登れば、北上川、南部より流るる大河也。
衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。
泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、えぞを防ぐと見えたり。
さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の草むらとなる。
国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、
笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。

「奥の細道」 







「義経記」  世界文化社 井口樹生 1976年発行 

衣河合戦の事

弁慶

弁慶の鎧に矢の立つことこの数を知らず。
その矢を折り曲げ折り曲げしたらから、まるで蓑をさかさまに着たようであった。
黒羽・白羽・染羽、色とりどりの矢どもが風に吹かれて見えた。
「弁慶ばかりはいかに狂っても死なないのは不思議なことだ。
我らの手にあまるから、平泉の大明神よ、弁慶を蹴殺したまえ」
と呪っていうのも笑止であった。


判官

義経幼少より愛蔵の刀をもって、左の乳の下より切先を立て、背中にまで通れとばかり突き立てて、疵の口を三方へ掻き切り、腸をえぐり出し、
刀の血のりを衣の袖で拭い浄める。脇息にもたれておいでになる。


北の方(義経の妻)

義経今は兼房を召す。
兼房は腰の刀を抜き放ち、北の方の左肩を押え、右の脇の下から左へ、つっと刀を刺し通すと、
北の方苦しい息の下で念仏を唱えられ、すぐにはかなくおなりになった。


若君(5歳、義経の子)

兼房の首に抱きつきなさって、
「死出の山とかへ、早く参ろう。兼房急いで連れて参れ」
と責めなさるからして、兼房涙にむせんで泣いていたが、敵はしきりに近づく。
これではならじと、若君めがけて二の刀をば刺し貫けば、
「わあっ」
とばかり声あげて、息が止まりなさった。


「早く邸に火をかけよ」
というひと言ばかりを最後のことばとして、ついに判官はこときれ給うた。






「芭蕉物語」 麻生磯次  新潮社 昭和50年発行


平泉

5月13日(陽暦6月29日)、
一関の宿を出た芭蕉と曾良は平泉へ向かった。
今日は朝から上天気である。

二人はまず義経の旧跡高館(たかだち)の丘にのぼった。
裏手は絶壁になっており下をみおろすと、北上川が川岸につきささるようにしぶきをあげていた。
奥州第一の大河である。

高館の丘は暗い樹木や雑草に埋もれて、往時の面影をとどめるものは何一つ残されていなかった。
ただ丘の頂にささやかな一宇の堂が建っていて、義経堂と呼ばれていた。

芭蕉がこういう奥地までやって来たのは、高館に義経の最後をしのび、光堂によって中尊寺文化に思いを馳せたいためであったが、
またこの平泉地方が、日頃敬愛する西行のゆかりの土地であるとうこともあった。

悠久な自然に比べると人間のしわざはまことにはかないものである。
芭蕉はこういう感慨を込めて、

夏草や 兵どもが 夢の跡  芭蕉



曾良は兼房の奮戦の有様を想像していた。
高館最後の日に、泣く泣く義経の妻子を刀にかけ、館に火を放ち、長崎次郎を死出の道連れにして猛火に飛び込み、
壮烈な最後をとげた。63歳の老齢であった。


卯の花に 兼房みゆる 白毛かな  曾良






撮影日・2019年6月30日










作成・2021年10月12日   追記・2021年10月19日