秋田県 |
佐竹義堯公銅像 場所・秋田県秋田市 千秋公園 立派な銅像がお城の中心に建っている割には、その功績が今一つわからない。 秋田市役所HP 第12代秋田藩主佐竹義堯(よしたか) (文政8年(1825)〜明治17年(1884))は、近代秋田を築いた最後の藩主であり、戊辰戦争では新政府方に属して戦いました。 明治維新の激動期を生きた象徴的な人物です。 (Wikipedia) 佐竹義堯 佐竹 義堯(さたけ よしたか)は、江戸時代後期の大名。 出羽国岩崎藩7代藩主、 のちに出羽久保田藩12代にして最後の藩主。 佐竹壱岐守家7代当主。佐竹氏第30, 32代当主。 7 文政8年(1825)〜明治17年(1884) 出羽久保田藩主。 富国強兵と西洋砲術を推進した。 慶応4年、戊辰戦争では新政府を支持して、旧幕府支持派の奥羽列藩同盟と戦う。 明治2年その功で章典禄2万石を受け藩知事となる。 「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行 「歴史と人物」 昭和56年9月号 中央公論 昭和56年発行 奥羽越列藩同盟 複雑にからんだ諸藩の思惑の中で、同盟総体としての戦争目的ははたして明確であったか そもそも、戦争において、何ゆえに、何のために戦うのかを不明確な結束となった。 一枚岩でなかった。 @朝敵グループ 会津藩・庄内藩、および桑名藩と旧幕脱走兵 Aリーダーグループ 仙台藩・米沢藩・長岡藩 B懐疑的グループ 秋田藩・弘前藩・盛岡藩 C弱小藩 (現状維持・日和見) 目的と利害が異なり、諸藩の結束が弱かった。 目的意識の不統一が内部対立を招いた。 同盟結成時点から同盟の方向に懐疑的であり、諸藩間から異論のある藩とみられていた秋田藩・弘前藩は戦争にはいると離脱していった。 20万石余の大名で、後陣を固めるべき立場の藩である。 撮影日・2018年8月5日 |
康楽館 場所・秋田県鹿角郡小坂町 康楽館 康楽館 康楽館は、労働者の福利厚生施設として明治43年に完成した芝居小屋で、 昭和45年まで公演が行われた。 外観は当時としては斬新な洋風建築だが、舞台構造は江戸時代から続く伝統的な芝居小屋を踏襲している。 福利厚生施設は充実しており、特に病院はへき地医療を実現した。 後に県下一の総合病院となった。 企業が病院を設置した先駆的な例でもある。 この他にも多数の施設が現存する。 「日本の産業遺産」二村悟著 平凡社 2014年発行
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小坂鉱山事務所 撮影日・2018年6月29日 |
たつこ姫 秋田県仙北市田沢湖町 田沢湖 たつこ像は、像そのものが田沢湖と合わせ東北を代表する観光名所。 水深、透明度、山脈、たつ子姫伝説、期待を裏切らない美しさがある。 秋田は美人どころとして、自他ともに認めている。 若い娘さんのことを”おばこ”という。 その、秋田美人の産地として有名なのが角館や田沢湖周辺一帯ときかされた。 昔からの美人どころであるあかしのように田沢湖にはこんな話が伝わっている。 八郎潟に住む八郎太郎は、いつしか田沢湖の美女タツコ姫と親しくなり、蛇身となって毎年、秋の彼岸になると田沢湖にやってくるようになった。 二人の逢瀬は、春までゆっくりと続けられ、若い二人の情熱は、北国の湖に氷をはらせなかった。 いまも田沢湖は氷結しないし、周辺に美女が多いのは、伝説のタツコ姫にあやかってのことだろうか。 「祭りと芸能の旅」 参議院議員宮田輝著 ぎょうせい 昭和53年発行 撮影日・2018年6月30日 |
作成・2021年10月7日 追記・2021年10月19日