銅像の人  愛知県
 

加藤清正 

場所・愛知県名古屋市






加藤清正の虎退治

この話の原型は亀井真矩の虎退治である。
真矩はもと、尼子氏の家臣、のち秀吉につかえた勇将で、文禄2年の秋、
釜山付近で狩りを催したとき、偶然にも大虎にあい鉄砲2発で仕止めた。
さっそく秀吉に献上して感状を受けたが、これが虎退治第一号である。

以来各武将は争って虎狩りをおこない、珍奇を好む秀吉もまた虎の肉や皮の献上を命令している。

清正もこの命令にもとずき虎を仕止めて献上した。
もっともそれは文禄2年か3年かはわからないが、具体的に語っているのは享和2年(1802)作の「絵本太閤記」である。
これによると清正もやはり鉄砲で大虎を仕止めている。

槍で刺殺してそのとき以来清正の槍が片鎌になったという伝説は、
江戸時代末期の錦絵描きの”絵空ごと”からうまれたものであろう。


「熊本県の歴史」 森田誠一 山川出版社 
昭和47年発行












撮影日・2018年9月15日


 


徳川家康(しかみ像) 


場所・愛知県岡崎市   岡崎城


有名な「しかみ像」(『徳川家康三方ヶ原戦役画像』)を石像化したもの、岡崎城にある。





三方ヶ原の合戦

武田信玄は元亀3年(1572)10月、風林火山の軍旗をひるがえして、ついに天下統一の戦旅に立った。
目指すは京都。そこから天下に号令しようというのである。
従うは歴戦の騎馬軍団3万。
その戦国最強ともいうべき軍の行手に第一番に立ちふさがったのは、浜松に居城をもつ青年武将徳川家康だった。

戦いの非は戦う前に明白だったが、家康は決然、1万余の兵をもってこれを浜松城北方の三方ヶ原に迎撃した。
12月22日夕刻、戦闘は開始されたが、しょせんは信玄の敵ではなかった。
家康も死を覚悟したほどの大敗北の末、命からがら浜松城に逃げ帰った。

家康側の死者1千余、
死者は頭を武田側に向けて倒れている者はすべてうつむきになっており、
浜松城の方を向いて倒れている者はすべて仰向けになっていたという。

文芸春秋デラックス「戦国日本合戦譚」8月号   文芸春秋  昭和49年発行












撮影日・2014年10月10日

 
 


本多忠勝 


場所・愛知県岡崎市   岡崎公園





「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行

本多忠勝
「家康に過ぎたる」合戦の勇者

本多平八郎忠勝は、徳川譜代の武功派として四天王のひとりにかぞえられた典型的な戦国武将である。
史書の伝える忠勝は、
「若年より軍におもむくこと、およそ50余度におよび、
武功すぐれておおしといえども、
いまだかつて創をこうぶることなし」
という勇将である。
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」、これもよく知られている。


三方ヶ原の合戦の時、忠勝は25歳であった。
徳川軍大敗北の殿軍の大役をつとめることになった。
のちに武田方の初鹿野伝衛門が回顧して語っている。
「・・・その時、殿軍の忠勝を追撃しようとしたが、
蜻蛉切の槍を片手でふりまわし、鬼神のような形相で睨みつけられると、全身が総毛だって、手も足も出なかった」


後、桑名15万石に封ぜられた。










撮影日・2014年10月10日

 
 


家康公・竹千代像ベンチ


場所・愛知県岡崎市  岡崎公園


家康は、天文11年(1542)、三河の土豪・松平氏の宗家8代目目に当たる岡崎城主・松平広忠の長男として生まれた。
信長は8歳
秀吉は5歳
であった。
母は三河刈谷城主・水野忠政の娘で於大(おだい)といった。
家康3歳の時、於大の父・忠政が病死。その子信元が跡を継ぐ。この信元が西の隣国・織田信秀と友好関係を結んだ。
於大を離縁し、実家に追い返した。
なさけない話だが、それほど今川と松平には力関係に差があった。

はるか後年、今度は自分も信長に脅されて妻と長男を棄てるのである。

「家康に訊け」  加藤廣 新潮社 2019年発行











「家康 最後の勝利者」 土橋治重 成美堂  昭和57年発行


岡崎城

岡崎城主になった元康には、これからどのように動くか、新しいプランが要求された。
義元を討ち取った信長にどれほどの力があるのか、また
氏真は父の復讐戦に出陣してくるかどうかが問題だった。

桶狭間合戦のとき、岡崎城へ引き揚げるようにすすめた、刈谷城主の水野信元が使者を送ってきた。
和議や同盟の話だった。
元康はおもな家人たちにも話し、信長と攻守同盟を結んだ。
そして、元康がこの締結に大きな期待をかけ、誠意をもっていることを示すために、
尾張の信長を訪問したのは、一年置いた永禄5年正月11日のことだった。
21歳の元康と29歳の信長がこのように会った。


突然の一向一揆

元康は家康と改名した。
今川と縁を切った以上、義元にあやかった「元」は必要がなかった。

信徒にとっては領主や豪族よりも、死後は極楽浄土への道を教えてくれる僧侶のほうが、存在価値が大きかった。
一揆は三河国全部にひろがり、あちこちで合戦が行われた。
家人の大半は家康の命令に服さなくなった。
合戦は、相手に勝って死傷者を多く出させては困るのである。
合戦は次第に家康側に有利になってきた。
相手の講和条件をすべて賛成し、和議は決まった。
一揆側についた家人たちを許したのは、家臣団の力を減じなかったことであり、雨降って地固まることになった。


駿河に侵入

この年(永禄10年=1567)の暮れ、甲斐の武田信玄が大兵をひきいて駿河に侵入したのをきっかけに、
武田、徳川の今川領の争奪戦が始まった。
信玄は家康に「大井川を境に東は武田、西は徳川で」と申込みがあった。
徳川氏は遠江の大半を領地に加えることによって、ほぼ60万石の大大名になったが、
岡崎城では西に片寄りすぎた。
浜松城に本拠を移すことにした。








岡崎市公式サイト「岡崎公園」

家康公・竹千代像ベンチ
徳川家康公はここ岡崎で生まれ、幾多の困難を乗り越え、天下統一を果たしました。
このベンチは「石都岡崎」と呼ばれる岡崎の優秀な石職人の技術と、地元産の良質な御影石を使い、造り上げられています。
家康公とこのベンチに座り、天下人を生んだ岡崎の魂を感じて下さい。




撮影日・2014年10月10日




 
 













作成・2021年10月9日   追記・2021年10月17日