岐阜県 |
山岡鉄舟 場所・岐阜県高山市 「日本剣豪100選」 綿谷雪著 秋田書店 昭和46年発行 山岡鉄舟高歩 山岡鉄舟は天保7年、本所大川端通いに六百国の旗本の五男として生まれた。 通称鉄太郎、後に鉄舟と号した。 鉄太郎11歳の弘化2年に父が高山代官所に赴任したので高山に行き、17歳までそこに過ごした。 20歳の時、山岡静山の門に入り槍術を学び技術・思想の上で大きな感化を受けたが、いくばくもなく静山は死去し、 望まれてその長女英子の婿として山岡家に入った、 英子15歳、鉄太郎20歳であった。 明治元年、西郷隆盛と会見して江戸を焦土から救った。 江戸開城後は、徳川慶喜にしたがって駿府に移り民政をつかさどった。 後に明治新政府に出仕した。子爵に叙せられた。 明治21年、53歳にて死去した。 撮影日・2016年2月3日 |
佐藤一斎 場所・岐阜県恵那市 岩村城 (いわむら観光協会) 佐藤一斎 幕末から明治維新にかけて、新しい日本をつくっていった指導者たちに多大な影響を与えた儒学者。 安永元(1772)年生まれ、安政6(1859)年没。 岩村藩の家老・佐藤信由(のぶより、号は文永)の次男として、江戸浜町の下屋敷(現東京都中央区日本橋浜町)で 初名は信行、通称は幾久蔵。 幼くして読書を好み、水練・射騎・刀槍などに優れ、小笠原流礼法を身に付けていた。 34歳で朱子学の宗家林家(りんけ)の塾長となり、大学頭(だいがくのかみ)林述斎(じゅっさい=岩村藩主・松平乗蘊<のりもり>の三男)とコンビを組み、多くの門下生の指導に当たった。 55歳の時、岩村藩主となった松平乗美の老臣に加えられ、「重職心得箇条」「御心得向存意書」を著し藩政に尽力した。 天保12(1841)年、述斎が74歳で没したため、70歳で幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)の儒官(総長)を命じられた。 安政元(1854)年、83歳の時、日米和親条約締結に際し、時の大学頭林復斎を助け、外交文書の作成などに尽力した。 門下生には、佐久間象山、山田方谷、渡辺華山などがいる。 撮影日・2015年7月31日 |
鵜匠の像 場所・岐阜県岐阜市 長良橋南詰 鵜飼いは神武天皇の時代、すでにあった漁法。 岡山県でも、夏なると新聞やテレビで「旭川の鵜飼いが始まりました」と報道されていた。 たぶん月見橋〜京橋間のどこかで実施されていたのだろう。 (岡山に新幹線ができる頃には廃止されていたような気がする) 隣県の三次の鵜飼いも知られているが、やはり一番有名なのは”ぎふ長良川鵜飼”。 岐阜公園の長良川河畔の観光船の船の数がすごい。 いけどもいけども遊覧船が係船されていた。 (Wikipedia) 鵜飼漁をする人を鵜使いまたは鵜匠(うしょう・うじょう)と呼ぶ。 その装束は風折烏帽子、漁服、胸あて、腰蓑を身に着ける。 漁に用いるウの数は各地の鵜飼漁の規模や漁法によって異なる。 例えば、小船を用いた一般的な鵜飼においては、1人の鵜匠が5羽から10羽程度のウを一度に操る。 期はおおむね晩春から初秋にかけてであり、鮎漁の解禁日にあわせて漁が始まることが多い。 鵜飼いでは、平底の小船の舳先で焚かれるかがり火が、照明のほかにアユを驚かせる役割を担っている。 かがり火の光に驚き、動きが活発になったアユは、鱗がかがり火の光に反射することでウに捕えられる。 ウののどには紐が巻かれており、ある大きさ以上のアユは完全に飲み込むことができなくなっており、鵜匠はそれを吐き出させて漁獲とする。 紐の巻き加減によって漁獲するアユの大きさを決め、それより小さいアユはウの胃に入る。 鵜飼は通常5月半ばから10月半ばまでの満月の日以外に行われる。 満月の日に行われないのは、かがり火に集まってくるアユが月明かりに惑わされるのを防ぐためである。 撮影日・2011年8月5日 |
xxxx像 場所・岐阜県xx市xx町 撮影日・xx |
作成・2021年10月8日 追記・2021年10月19日