銅像の人  長野県
 

川中島の戦い・武田信玄対上杉謙信像 

場所・長野県長野市小島田町  川中島古戦場(八幡原史跡公園)
建立・1969年(昭和44年)


川中島の合戦は小学校にあがる前に、パッチンで知っていた。
漫画・小説・テレビ・映画でいろいろ合戦シーンが登場するが、
一番、印象に残っているは映画「風林火山」。

三船プロ制作「風林火山」で、川中島では
中村錦ちゃんが武田信玄、石原裕ちゃんの上杉謙信。
馬上から裕ちゃんが斬りつけると、錦ちゃんが座ったまま軍配で受け止める。
あのシーンは見ごたえあった。
後で思ったが、あの映画で裕ちゃんのセリフは一つもなかった。



川中島の一騎討ち


戦国時代の名シーンといえる川中島合戦の一騎討ち。
武田軍の本陣に攻め入り馬上から斬りつける謙信と、
それを軍配で受ける信玄という一騎打ちの場面を再現している。
NHK大河ドラマ「天と地と」の放映を記念して立てられた。
建造から40年以上経ち、破損も目立つが、迫力はいささかも衰えていない。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行







「私説・日本合戦譚」 松本清張  文春文庫 1977年発行

川中島の戦

川中島の戦といっても、今の青少年にはあまり分からぬ。
筆者の子供時代の絵本とえば、必ず武田信玄と上杉謙信の一騎打ちが、極彩色で載っていたものだ。
床机に腰かけ、諏訪法性の兜をかぶった信玄が、馬上で襲いかかる謙信の太刀を、軍配で受け止めている図だ。

何となく謙信が勇ましく、信玄は小狡くみえた。
信長や秀吉に人気があり、家康に人気がないのと似ている。
実際、家康は信玄から民治など学んでいるので、性格も似通ったところがある。

川中島の戦いは、戦前だと琵琶歌などに歌われ、特に頼山陽がこの戦いに詩を作ってから、
日本合戦史の華のように思わてきた。
また、謙信と信玄の組合せが、山陽などに竜虎にたとえられたから、
横綱同士の四つ相撲みたいに思われているが、
事実は謙信の方が信玄にくらべて大ぶん見劣りがすると思う。







撮影日・2014年7月19日


 


国定忠治 


場所・長野県須坂市須坂



子どもの頃は、
どこかで聞いたり(ラジオや近所の子)、見たり(漫画や映画)で、自然と覚えたセリフ。


赤城の山も今宵限り
生まれ故郷の国定村や
縄張りを捨て 国を捨て
可愛い乾分の手前(てめえ)たちとも
別れ別れになる首途だ






東海林太郎の歌はラジオで覚えた。

 〽
男ごころに 男が惚れて
意気が解け合う 赤城山
澄んだ夜空の まんまる月の
浮世横笛 誰が吹く








撮影日・2017年9月26日

 
 


羽田武嗣郎 


場所・長野県上田市   上田城跡






(Wikipedia)

羽田武嗣郎
はた ぶしろう

1903年4月28日~1979年8月8日(76歳没)

長野県小県郡和田村(現長和町)に教育者羽田貞義の三男として生まれる。
1937年、立憲政友会公認で第20回衆議院議員総選挙に立候補し、当選する。
「羽田書店」を創立する。社員にはのちに独立してみすず書房を創業する小尾俊人らがいた。

1939年の政友会分裂に際しては中島知久平が総裁を務める政友会革新同盟(革新派、中島派)に所属。
1941年大政翼賛会中央訓練所錬成部副部長に就任する。
1942年、翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として当選。

戦後日本進歩党の結成に参加するが、翼賛議員だったことが原因で公職追放になる。
1952年に追放解除となり政界復帰。
農林政務次官、自由党政調副会長を歴任する。1955年、自由民主党に参加する。

自民党では緒方派→石井派に所属し、党副幹事長、衆議院建設委員長などを務める。
1963年、脳出血の発作に襲われる。
病魔に苦しみながらも1967年、第31回総選挙に立候補し当選する。しかしその後も満足な政治活動が困難になり、1969年引退。
後援会の意向もあり長男の羽田孜が後継者となった。
1979年8月8日、76歳にて死去。

親族
羽田孜(長男)
羽田雄一郎(孫)
羽田次郎(孫)






撮影日・2017年9月26日


 


おぶせ庵の鬼太郎 



場所・長野県上高井郡小布施町


お菓子屋さんの人形。











撮影日・2017年9月26日


 
 


聖火ランナー像 


場所・長野県長野市松代町 真田公園


1998年の長野冬季オリンピックを記念した銅像。










撮影日・2014年4月14日













作成・2021年10月8日  追記・2021年10月19日