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恩田木工 場所・長野県長野市松代町松代 制作・ 藩政の立て直しと『硯日暮硯( ひぐらしすずり』で知られる、松代藩家老。 (日立システムズ) 「信州松代藩財政再建の立役者」 〜恩田木工〜 信州松代藩家老・恩田木工(おんだもく)が、疲弊した藩政の立て直しに着手したのは江戸中期の宝暦7年(1757年)。 木工の政治手法は、人間の相互信頼の回復、誠実の追求であり、意識改革であった。 政治の要諦は「民、信なくば立たず」、よって、まずは「隗より始めよ」である。 木工は身内を集め「今後、自分はいっさい虚言を吐かない。食事は一汁一菜、衣服は新調せず木綿とする。妻とは離婚し、子供は勘当、雇い人は解雇、親戚とも縁を切る」と宣言。 領民に耐乏生活を強いる立場にある者は、率先して身をつつしまなければならない。 役目が果たせなければ切腹するほかない。「おまえ達にもその覚悟があるか」と問うたのだ。 家族ら得心し、今後は木工に倣って質素倹約を誓った。 領民には、税の前納の廃止と滞納分を免除する半面、先納分は返還せず、以後、月賦納入とし滞納は許さないことなど定めた。 木工は、それらを一方的に告知したのではない。 領民と直接対話し、諄々(じゅんじゅん)と説きながら、合意を積み重ねていったのである。 木工が指揮した藩政改革は、41歳から宝暦12年(1762年)正月に46歳で急死するまでの実質わずか4年。 その間、財政の劇的な改善はなかったが、木工が拓いた道筋は明和3年(1766年)ごろから、再建の兆しを表わし始めたのだった。 同時代の松代藩士・小松成章は「恩田木工は近世の賢臣というべし。 上を敬い下を恵みて、仁徳深かかりければ、一人もこの人を悪(あし)ざまにいう者なし」と記し、 木工が重病にかかったと知れば「国民(くにたみ)歎きわずらい、我も我もとつどい集まり日待という事をして本復を祈りける」と伝えている。 撮影日・2014年4月14日 |
佐久間象山 場所・長野県長野市小島田町 川中島古戦場(八幡原史跡公園) 国立国会図書館 佐久間象山 さくま しょうざん 文化8年2月28日〜元治元年7月11日 (1811〜1864) 解説 実名は国忠のちに啓、号は象山。 父は松代藩の祐筆。 天保4年(1833)に江戸へ出て佐藤一斎の私塾に入るが、3年後には松代に帰る。 10年江戸に塾を開く。老中となった藩主真田幸貫より海外事情の研究を命じられ13年に「海防八策」を上書。 安政元年(1854)吉田松陰の事件に連座して松代に蟄居。 文久2年(1862)赦免。元治元年(1864)幕府の命を受けて上洛し開国論を主張したが、尊皇攘夷派によって暗殺される。 「氷川清話」 勝海舟 角川文庫 昭和47年発行 佐久間象山 佐久間象山は、もの知りだったよ。 学問も博し、見識も多少もっていたよ。 しかしどうもほら吹きでこまるよ。 あんな男を実際の局に当たらせたらどうだろうか・・・、なんとも保障できないのう。 顔つきからして一種奇妙なのに、古代模様の袴をはいて、いかにもおれは天下の師だというように厳然とかまえこんで、 元来勝気の強い男だから漢学者が来ると洋学をもっておどしつけ、 洋学者が来ると漢学をもっておどしつけ、ちょっと書生が尋ねてきても、じきにしかりとばすというふうで、 どうも始末にいけなかったよ。 撮影日・2014年7月14日 |
xxx像 場所・長野県xx市xx町 撮影日・xx年xx月xx日 |
xxx像 場所・長野県xx市xx町 撮影日・xx年xx月xx日 |
作成・2021年10月8日 追記・2021年10月19日