銅像の人  静岡県
 

徳川家康 

場所・静岡県静岡市 駿府城跡


「人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。
 不自由を常とおもへば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。
 堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。
 勝つことばかりを知りて負くることを知らざる害その身に至る。
 おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるにまされり」

東照宮御遺訓







「家康 最後の勝利者」 土橋治重 成美堂  昭和57年発行

秀吉、死す

家康は豊臣政権五大老の筆頭であり、秀吉幕下の大名の中では最高に威勢があった。
慶長3年(1598)、秀吉が63歳で死ぬ。
翌年、前田利家が死ぬ。
家康の一人舞台の観を呈した。
慶長5年(1600)関ケ原の戦い。
慶長8年(1603)従一位、征夷大将軍。
元和2年(1616)太政大臣、75歳の波乱万丈の一生を閉じた。いまなら90歳を越したことになるのであろう。






「近世の日本」 高尾一彦 講談社現代新書 昭和51年発行

徳川家康
関ケ原の戦い


秀吉は朝鮮侵略の最中に死んだ。
誇大な妄想におちいった専制君主が死ねば、
朝鮮侵略が妄想の産物であることはだれの目にもあきらかだったから、
いそぎ撤兵することになった。
日本の政治的課題は、秀吉のなきあとの天下統一を、だれがつぐかであった。

この時点で政局を担当していたのは、秀吉の長老の大名たる五大老である。
つなわち、徳川・前田・宇喜多・上杉・毛利の5人である。
この中では家康の実力が抜群である。
家康の政敵は他の五大老になるが、前田利家はその年に死んだ。

慶長五年(1600)関ケ原合戦は東軍の勝利に終わった。

家康はもう誰にも遠慮がいらなかった。
彼が秀吉よりさらに強大な集権的政治体制をとりえたのは、関ケ原合戦のおかげである。
西軍についた大名は90家もあった。
没収領地やけずった領地を、徳川一門や譜代の大名へとりたて、東軍へ参加して功労のあった諸大名への加封した。
その際、秀吉いらいの石高制により諸大名の国替えができた。
重要なところへ徳川家一門や譜代大名を配置した。





撮影日・2014年10月8日


 


戦没者やすらぎの像 


場所・静岡県静岡市 駿府城跡


(朝日新聞 2019年12月17日)

駿府城公園の敷地内に保管されている、破損した「やすらぎの塔」の像。左側に立っていた女性像の顔と思われる=静岡市葵区

 駿府城跡の発掘工事現場の近くに、「やすらぎの塔」と刻まれた石の台座がある。かつて第2次世界大戦中の勤労動員で命を落とした学生を慰霊する男女の像が建っていたが、2001年4月の地震で撤去されたまま、今は何も置かれていない。
 約60年前に静岡市葵区の駿府城公園に建てられ、地震で破損し、撤去された戦没学徒の慰霊碑「やすらぎの塔」の再建を求める運動が起きている。市民団体が市に要望し、約2千人の署名も集めている。












撮影日・2014年10月8日



 
 


若き日の徳川家康 


場所・静岡県浜松市中区元城町  浜松城公園


家康の浜松時代は、29才から45才までで、”若き日の”でなく壮年期を浜松で17年間過ごしている。
もっとも大きな出来事は、岡崎から浜松に移って2年後の”三方ヶ原の戦い”であろう。


三方ヶ原の敗戦

「日本史探訪12」 角川文庫 昭和58年発行

元亀元年(1570)、家康29歳の時、家康は岡崎を離れ。浜松城に居城を移した。
二年後、家康は生涯ただ一度の手痛い敗戦をそこで経験する。

元亀三年(1572)十月、武田信玄は四万五千の大軍を引き連れて上洛の途についた。
天竜川沿いに北から侵入してきた信玄の大軍に対し、家康の軍は信長の援軍を合わせた八千余を率いて、三方ヶ原に討って出た。
ここで徹底的に討ち負かされた家康は、わずかな従者と、追い迫る武田勢をけちらし、やっとのことで浜松城に逃げ込んだという。

しかし、この戦いで、家康の譜代武将の率いる三河武士は勇名をとどろかせた。
武田軍の孟将馬場信房は、あとで信玄に、
「三河武士はたいしたものです。
死体を見てもこっちを向いている者はみんなうつぶし、
浜松の方を向いた者はあおむきになっていました。
敵に後ろを見せた者は一人もいない証拠です」と言ったという。

家康が「街道一の弓取り」と称されるようになったのは、
この戦いからだといわれる。





”出世城”として知られる浜松城。
家康はこの地を引馬から浜松と改め、この城を拠点にして五か国の大大名となった。



「家康 最後の勝利者」 土橋治重 成美堂  昭和57年発行


信康自刃

「武田勝頼は勢力が落ちたといっても、四か国を領有するわれらの大敵。
信長公とは一戦を交えるどころか、その後ろ盾がなくては、徳川は家をたてていくことさえできぬ」
信康は21歳、築山殿は37歳で死んだ。
 

五か国の大名になる

本能寺の変の後、甲斐と中、南信濃を手に入れることができた。
五か国のその石高は140万石にのぼった。


小牧長久手

秀吉は光秀を滅ぼした後、
柴田勝家を敗死させ、
丹羽長秀を逼塞させた。
さらに滝川一益を降伏させた。

二男の信雄が家康に泣きついた来た。
合戦は池田恒興父子、森長可が戦死した。
対陣が長くなり、両軍は引いた。

後に頼山陽が「日本外史」に、
家康の天下を獲りたるは大坂の役にあり。否、関ケ原の役にあり。否、小牧の役にあり」と述べている。







徳川家康


「教養人の日本史2」  脇田修 現代教養文庫  昭和42年発行

信長の死後、信長領国の混乱のなかで、家康は甲・信両国を手に入れ、領土は5ヶ国に拡大していた。
家康は信長の子信雄をたすけて小牧長久手にたたかった。
長久手で秀吉の一部隊を破り、合戦上手の面目を示している。
この敗戦は、長く秀吉の負担になった。
結局、
姐をむりやり結家からつれもどして家康の正室とし、
さらには母大政所を人質としてつかわすことにより、やっと家康の入京をえ、臣属させたことは、よくしられている。

1590(天正18)年家康は、小田原の役の先鋒として出陣し、北条氏滅亡ののち、その領国を得て、関東六ヵ国の主となった。

秀吉が死ぬと、天下は再び動乱のきざしをみせた。
世襲して秀頼が跡をつぐほど豊臣政権は安定もしていなかった。
家康は五大老の筆頭であった。
直轄領250万石、家臣団は朝鮮にも出兵せず、無傷のまま温存されている。
翌年、前田利家が死ぬとともに、家康は勝手に政務を行った。

   


撮影日・2014年10月9日


 
 


徳川家康 


場所・静岡県静岡市  JR静岡駅前



「日本史人物列伝」  奈良本辰也  徳間文庫  1988年発行

徳川家康

松平家家臣団は、家康が人質になっていた10年余というものを扶持米もなく百姓同然の姿で追い使われていたのだった。
『三河物語』は大久保彦左衛門の思い出話など綴ったものだが、
それによると、その領地から上がる年貢はすべて駿府へ運ばれて、米一粒も家臣たちには与えられなかったという。
そればかりか、生活に困った家臣たちが田畑にでて手作りすると、それにも年貢をかけて取る始末だったという。
これもひとえに、君の安全を願ってのことであった。

人々を安心させる律義さ
家康は、人々を安心させるものを持っていた。
何事にも心を込めて、これを行うという風が見えたのである。





徳川家康

岡崎城主松平広忠の子に生まれたが、6歳で織田、8歳で今川の人質となり、
その間に父が横死し、領国は今川の軍政下におかれて、小国の悲哀をつぶさに味わった。
桶狭間合戦に今川義元が討たれ、19歳にして岡崎に戻ったのである。

「教養人の日本史3」 脇田修  脇田修 昭和42年発行






「日本史探訪12」角川書店編 角川文庫  昭和58年発行 

徳川家康

≪天文11年(1542)徳川家康は、三河の国、岡崎城内に産声をあげた。
隣国尾張に生まれた織田信長に遅れること8年、秀吉よりは5年遅い誕生である。
祖先は松平郷の小さな豪族であったが、
家康の祖父清康の代には岡崎城に移り、三河一国を手に入れる勢力となった。
しかし東は今川、西は織田という東西二つの強力な勢力にはさまれ、苦しい立場にたたされていた≫


山岡荘八
家康は、実に運がよい人だと言われるんですが、
ぼくは、このくらい運の悪い人はなかったと思うんです。
お祖父さんは14歳の時に殺されていますし、
お父さんは26歳で殺されている。
母親とは1年半しかしっしょにいられないし、
こして今度は満4歳で、人質に出される、非常に運の悪い人で、
ていていの人なら、そのどこかでまいるところです。

山岡
とにかく織田と今川の取りっこですよ。
岡崎の大将ぐらいでは、どうにもならんのです。その両方の機嫌をうまくしなければ、生きていらない。


≪祖父は部下に殺され、父はまだ若く、今川義元の援助を受け、幼い家康を人質として差し出し、
かろうじて松平の家名を保つありさまであった。
さらに広忠の急死によって、主のいない三河は、まったくの保護領となり、
三河家家臣団の苦闘と忍従の生活が始まる≫


≪16歳で、今川家の重臣の娘と結婚した。
築山殿で、家康より八ツ年上であったという≫


山岡
家康はほんとうの戦争孤児だったと思うんです。



撮影日・2014年10月9日


 



川越人夫
 

場所・静岡県島田市河原   島田宿大井川川越遺跡






「静岡県の歴史」 若井淳之  山川出版社 昭和45年発行 


越すに越されぬ大井川

関所の取り締まりはいかにきびしくとも、通行手形があれば通れるものであった。
しかし、一度大雨でも降ると河原一面に出水して川留になって通ることができないのが
大井川をはじめ安部川・瀬戸川・奥津川などであった。

遠江や駿河のある河川は、天竜川・大井川・安部川・富士川・瀬戸川・奥津川なで、
橋梁のない河川ばかりであった。
こうした河川を通行者がわたるとき、
天竜川・富士川では渡船制度が、
大井川などでは渡渉方式が採用されていた。

大井川の渡渉は古くからたいへんなところであった。
水深も浅く、よほどの大水でない限り渡渉は可能のようであった。
だから”自分越”をしていたが、生命の危険もしばしばあった。

島田代官であった長谷川藤兵衛は1660年頃、往還の川越らが旅人にたいして不作法のことがないように、
川目代を任命してその取り締まりにあたらせた。
こうして大井川の川越制度は徐々に整備されてき、元禄年間に本格的に制度化された。



 



川越賃銭の統制

島田・金谷両宿に川庄屋と川会所の手に委ねる。
水深
水深二尺五寸を常水ときめ、一尺増水するごとに高くなる。
川庄屋は毎朝夕六つには河原に出て、その日の川の状況を調べ、
水深などにより賃銭の決定や川の留明を決めていた。
川庄屋の決定により、川越人足は動くのであるが、
島田側でみると江戸中期に350人ほどいたといわれ、幕末には650人くらいに増加していった。


肩車や蓮台などの方法があり、
蓮台越には多様で芋手すり、四方手すり2本棒、四方手すり4本棒などの種類があった。
また大名は自分の蓮台を持参、本陣などにあずけていた。

大井川渡渉のなかで最大の問題は、
賃銭でも人足の不作法でもなかった。
川越庄屋たちの判断によって決定される川の留明であった。

雨が降り、川が増水して川留になると、
島田・金谷の川庄屋たちは、宿々にはもちろん、道中奉行にたいしても通報・報告していた。
すると参勤交代の大名も、一般旅行者ももよりの宿場で泊まらざるをえなかったし、
川明になるとその旨がまた通報されるので、先を争って渡ろうとする人々が河原に殺到し、
さながら戦場のようであったという。


川留になって困り果てたのは、大名や通行者ばかりではなかった。
参勤交代の援助をする助郷村の人々も同様であった。
かれらは逗留する大名たちが、宿場にいる間は村にかえることができず、村から食糧を運ばせて待機していたから、
その負担も莫大であった。


いっぽう海上交通・水上交通の発達も忘れてはならない。
菱垣廻船・樽廻船の発達にともない、海上交通とむすびつく清水湊の発達もいちじるしく、富士川の水運の発達ともむすびついて、米や塩の流通の重要な中継地となった。





撮影日・2014年10月9日












作成・2021年10月8日 追記・2021年10月19日