銅像の人  北海道
 

石川啄木 

場所・北海道札幌市 大通り公園


石川啄木

石川啄木は本名を一(はじめ)といい、渋谷村石川一禎の長男として、
明治19年2月20日、渋谷村常光寺に生まれ、
明治31年盛岡中学にはいり、3年の時ストライキの首謀者の一人となり、学生改革に活躍した。
翌4年退学して上京し、文学に志したが病をえてはたさず、帰盛して詩活動に従い、
長詩「愁調」が雑誌「明星」にのせられるようになる。
このとき与謝野鉄幹の命令で”啄木”と称するようになった。

明治38年処女出版「あこがれ」をだし、これによって結婚費用を支弁しようとしたが、
収入は一文もなく、ついに節子との結婚式に間に合わなかったという。
しかし盛岡に新居をかまえさかんに文学活動をおこない、
「小天地」を発行しているが、経済的には恵まれず、
39年渋谷村の小学校代用教員をつとめた。
40年校長排斥のストライキを指導し免職となり、一家離散し、
妹を連れて北海道函館にて小学校の代用教員となり、
その後転々と北海道の新聞社を歩き、社会主義運動にひかれ、上京の志おさえがたく明治41年上京し、
42年朝日新聞社に入社、
43年「一握の砂」を発刊した。
45年4月13日死去。
6月10日発行の「悲しき玩具」は死後の刊行となる。


「岩手県の歴史」 森嘉兵衛  昭和47年発行







石川啄木 

明治19年(1886)〜大正元年(19112)
岩手県生まれ。
盛岡中学中退後、上京し与謝野鉄幹の知遇を得て「明星」に詩を発表。
20歳で処女詩集「あこがれ」を刊行、天才詩人として注目される。
その後、北海道各地を流浪、函館にもより、2年ほど北海道にいた。
明治43年『一握の砂』、45年「悲しき玩具』は近代短歌史上不朽の生命を持つ。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行










撮影日・2017年8月3日


 


函館四天王像 


場所・北海道函館市元町


函館の旧市街地の高台に”元町公園”があり、
そこにはペリー提督によって、函館が開港し、北海道の開発と、国際都市化の新しい時代の開拓者4人の像がある。

(Wikipedia)

元町公園

函館山山麓にある基坂の突当りに位置し、函館港を一望することができる。
1869年(明治2年)に蝦夷地が北海道と改称し、箱館も「函館」となった。
江戸幕府が箱館奉行所を設置した場所であり、
旧北海道庁函館支庁庁舎には開拓使函館支庁、函館県庁、北海道庁函館支庁が置かれ、政治の中心地であった場所でもある。

元町公園を含む函館西部地区の町並みは
「重要伝統的建造物群保存地区」
「函館市西部地区歴史的まちなみ保存環境美化促進地区」に選定されている。






【函館市公式観光情報】
(向かって左から)

今井市右衛門
(石川県能登出身)1836〜1887
1864(元治元)年、函館最初の洋物店(西洋雑貨店)を開業。
箱館戦争後の資材、用品不足に助けられ大いに繁盛し、函館屈指の大商人となりました。
明治に入ると北海道最初の新聞社「北溟社」を渡辺熊四郎・平田文右衛門らと設立。
医師と共同で福祉事業の育児会社や恵まれない人のために鶴岡学校を運営しました。

平田文右衛門
(函館出身)1849〜1901
呉服太物商を営み、他の四天王とともに造船所、器機製作所、学校、病院、新聞社の設立等を主唱し、計画・実行。
函館の将来のためには港湾の整備、船渠の完成、奥地に通ずる鉄道の敷設が急務であると考え、
函館・小樽を結ぶ函樽鉄道株式会社(現在のJR函館本線のうち、函館〜小樽間)の創設に努力したことでも知られています。

初代・渡邊熊四郎
(大分県竹田出身)1840〜1907
1869(明治2)年に金森洋物店を開業し、のちに書店や船具店、海運業、倉庫業などを展開。
函館病院の再建に尽力しました。
2019(平成31)年に閉店した棒二森屋デパートは、末広町で開いた金森森屋百貨店が前身。
現在は観光スポットとして知られる金森赤レンガ倉庫も、初代・渡邊熊四郎の設立した金森商船が建てた倉庫をリノベーションしたものです。

平塚時蔵
(青森県田名部〈現・むつ市〉出身)1836〜1922
呉服太物、西洋雑貨の販売を業とし、1875(明治8)年には渡邊熊四郎、平田文右衛門、今井市右衛門等と協力して
書店・新聞閲覧所を設けたほか、1878(明治11)年には函館新聞社を創立。
函館公園の開設にも関わり、第一公立病院の創立、弥生小学校の大火からの再建など、慈善事業にも貢献しました。






撮影日・2017年7月30日


 


クラーク博士 


場所・北海道札幌市  北海道大学構内





“北海道開拓の父”
ウィリアム・スミス・クラーク

クラーク博士は、明治9年7月、北海道開拓使長官黒田清隆に、将来の北海道開拓の指導者を養成するため「札幌農学校(現北海道大学)」の初代教頭として招かれました。
1期生16名に、動物、植物学のほか、キリスト教の教えによる道徳を英語で教えるなど、大きな影響を与えました。来道してわずか8カ月余の札幌滞在でしたが、翌年明治10年4月16日、クラーク博士は教え子たちと島松(北広島市)で、馬上から、有名なことば「Boys, be ambitious.(青年よ、大志を抱け)」と別れのことばを叫んだ、と伝えられ、まさに北海道開拓精神を代表することばとして、後世に伝えられていきました。

【羊ヶ丘展望台Web】






撮影日・2014年2月6日


 
 

 











作成・2021年10月12日 追記・2021年10月16日